多賀谷軍は後退したが、しかし、再度南進を開始するおそれがあった。これに対して北條氏堯は、北條勢力圏内の兵力を守谷城に集めて、総力をあげて多賀谷攻撃の計画をたてた。これについては、『東国戦闘見聞私記』に記されており、また『守谷城勢揃之覚』という文書にも述べられてある。『守谷城勢揃之覚』という文書の真偽についてはいろいろと論議はされているが、ここでは、『守谷城勢揃之覚』についてみると、先ずその始めの書きだしに「下妻の多賀谷政経は、自分の欲望のため、各所に侵入して、その勢力は強大である。再度、相馬領を侵すので、これを撃退しようと思う。これに参加する人々は、北條家に心を寄せ多賀谷を拒む人々で、常陸、武蔵、相模、上野、下野の諸将である」と記してあるが、北條氏堯はこの書面状をもって、諸将に回文したものであろう。そして、その後に出陣将士の名が列記してあり、その最後に、「将兵六百四拾八騎、雑兵三万四千人」とある。しかし、その数は大変な誇張であろうが、将兵の記名は参考になる。こちらの方が、『東国戦記』より記名数が多いのは、どういうわけか。しかしながら、その氏名についてはここでは省略したい。とにかく守谷城で、受付がこれを記帳するのに三昼夜、休息もせずに記入したということである。