天正末年頃の相馬・多賀谷の勢力圏
時に天正五年の中頃、氏堯は自から筒戸城に陣し、岡見の栗原義長は福岡城、残兵は守谷城に拠って、水海道城を南と東から攻め落とそうとした。多賀谷軍は多数の兵船で福岡城に向かったが、この戦に水海道城主田村弾正は戦死し、多賀谷軍は敗れた。
栗原義長は進撃して、水海道にて戦った。多賀谷氏は遂に佐竹氏に援軍を求めたので、佐竹義重は今鹿馬に軍を進め、義長と戦を交えた。戦の状況は、守谷城に拠っていた高井新八郎、逆井城の北條氏繁に報告され、極めて緊密な連携がなされていたことは、残された文書によってうかがえるのである。
戦は水海道の実城(みじょう)、報国寺を中心に激戦が展開されたが、水海道勢は敗れて中妻方面へ落ちていった。また、弘経寺や大輪城を攻めていた多賀谷重経も、北條軍と相馬の連合軍に敗れて下妻城に逃れた。その後を追って北條軍は下妻に進入しようとしたが、その頃、織田信長が東征するのではないかという情報が入ったので、それを中止し、また、各将も兵を引き揚げて自国へ帰った。