相馬攻撃に失敗した多賀谷氏は、その鉾先を岡見氏に向けた。天正七年、岡見一族は北條氏の命で、千葉氏を討つため布川に陣し、千葉頼胤と志水城外で戦って破れたが、守谷、筒戸の相馬氏の来援によって、これを降参させた。ところが、多賀谷重経は岡見氏が千葉合戦に参加しているすきをねらって、その属城谷田部城を攻略した。
それからしばらく経過した天正十四年、多賀谷軍は岡見領内の小張城(おばりじょう)、板橋城を攻略し、つづいて足高城(あだかじょう)を攻め、これを手中に収めた。相馬一族はこれを助けたが、城は焼かれ、かろうじて守谷に帰城したということである。しかしながら、多賀谷軍も損害甚大で、牛久城を目前に見ながら、それを攻撃することができず、下妻に帰っている。翌年の天正十六年、多賀谷軍は牛久城を攻めたが、岡見を討つことができなかった。そして、北條軍とも和を結び、結局、攻略した岡見領はすべて岡見氏に返却した。