天正十八年、豊臣秀吉はただ一人残った北條氏を倒さんがために、天下の大軍を率いて小田原城を攻撃した。北條氏は戦備を整えて防戦したが、海陸共に攻めたてられ、遂に秀吉の軍門に降った。
ここに北條氏は、五代百年にして滅亡したわけである。北條氏の輩下にあった相馬氏も同じ運命をたどらざるを得なかった。秀吉の部下である木村常陸介、浅野弾正の両将が、守谷の地に進駐し、相馬氏に代わって守谷を領治することになった。
なお、ここに付記したいのは、多賀谷氏はその後豊臣氏の輩下となったが、関ケ原の戦に石田三成についたので、徳川家康からその全領地を没収され、その一族は殺されたり、また自害した。そしてその残りは、秋田に移封された佐竹氏をたよって、落ちて行ったということである。