城内は増築さる

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 四の郭、五の郭にあたるところは城内と呼ばれ、また、五の郭は三の丸ともいわれているが、これらは後になって増築された部分であろう。図面によると、この郭内に二十五軒という地名が残されているが、ここには武家屋敷があったところであろう。
 四の郭、五の郭は、現在、守谷小学校の敷地にもなっており、その入口にあたる追手と称するのは、大手のことをいうのであって、大手門(おおてもん)のあった場所である。
 大手門の構築様式については、記録、図面等は残されていないから、その様相は明らかでないが、現在残されている二本松と称する右側土塁と、左側土塁の構築様式が極めて大きなことと、土塁間の幅が広いことなどから推定して、大変に規模の大きな大手門であったと想像されるのである。二本松土塁には最近まで二本の老松が残っていたが、枯れてしまって、切株だけが残っている。そこから学校の境域に沿って、二〇〇メートルにわたる土塁が続き、その土塁の尽きるところに、五〇メートル四方の枡形(ますがた)が整然と残されている。土塁は風雪のため破壊され、現在はわずか一メートルの高さを保つのみである。また、大手門の向かって左側の土塁は、高さ約三・七メートルで、堀の部分はすっかり埋まり、道路や耕地に変わってしまったが、本城が機能を発揮している江戸時代初期の頃までは、その土塁の高さは五メートル以上はあったものであろう。

守谷城の大手門跡