守谷城は将門の城ではない

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 一般に守谷城は将門が築造したものといわれている。しかしながら、わが国には奈良時代より平安時代にかけて、いわゆる、柵の部類に属する防塁は構築されたようであるが、城館の築造が実施されるようになったのは、鎌倉時代になってからのこととされている。
 ここに『将門記』を見ると、将門の居所は豊田、石井など転々と移動していて、定まってはおらず、それは屯所とか営所といわれる程度のものに過ぎなかった。その後になって計画された王城の建設予定地も、石井の地であったことについては、第一章ですでに述べたとおりである。更にまた、守谷城の築造の上限も、その様式から判断して、鎌倉時代以前にさかのぼることはできないのである。
 また、将門が勧請したといわれる妙見八幡が、守谷城の近くに存在することをもって、城館もこの時点で築造されたものと、みる人もあるが、これについても、細部にわたり第一章で触れたとおりである。将門はあくまでも、守谷を信仰の場としたことに関連づけた方が、妥当である。
 とにかく、守谷城を築造した最初の人は、相馬次郎師常であったと推定したい。師常については、第三章において触れたが、一つだけ疑問が残る。それは、師常邸と称するものが鎌倉にあって、また、相馬天王社も鎌倉に現存するところから、彼の本居は鎌倉であったという説もある。たしかに師常は頼朝の重臣として、鎌倉に居を持つことは当然のことであるが、常住の地はあくまでも守谷城であったものと考えたい。