戦国期の守谷城

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 守谷城はその後、延宝四年(一六七六)の江戸時代の初期頃まで使用されて、後は空城になっており、約四〇〇年間にわたって存在した城である。その間、数回の拡張事業がなされ、面積は約三〇万平方メートルに及び、その規模壮大にして戦闘機能を有する天下の名城といえよう。別名相馬城ともいわれ、相馬氏の本城であり、相馬氏はこの城を拠点として筒戸城、高井城、菅生城、内守谷城、弓田城、その他多くの支城を有し、それぞれ、その一族を配置したものである。守谷城主相馬治胤が、古河公方義氏に、その居城を提供して、公方の危機を救おうとしたことは有名な話である。
 また、戦国も末期になった頃、各国、各地の部将が集結して多賀谷総攻撃のため、出陣の宴をはったのもこの城であった。また「和田の出口の大きな榎の木」も、この城の偉容を語るかのように残されているのである。(註9)