相馬御厨のところで述べておいたように、ここから貢納物とし「塩鮭百匹」があげられているが、当時の小貝川や常陸川は鮭が多く獲れたらしい。それを塩鮭にして貢納したり、他領にも売られたものであろう。塩は霞ケ浦の一部からもとれたが、鹿島地方では大量に生産したもので、そこから水路を利用して盛んに運搬されたようで、市の台に荷上げされたり、直接守谷城の舟着場にも運ばれた。
現在、利根川が流れているところは、当時は沼や湿地帯で、それを広川や常陸川が貫いて、霞ケ浦の方へ注いでいたものであった。中でも菅生沼や藺沼は広大で、漁獲も多かったが、その他に、菅生沼では菅(すげ)が生えておりそれが菅笠の材料となり、また、藺沼は藺草が茂り、それを刈り取り乾燥させて、むしろや笠などが造られた。さらに藺草の中から灯芯も造られ各地に運ばれた。それ等は庶民の産業として、農業耕作の合間を利用して生計をうるおしたものである。