相馬野馬追い

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 常総の産業として、牛馬についてあげなければならない。この地は古代より、特に馬牧の地として有名で、菅生の地も馬の名産地であって現在、馬牧に関する地名も残されている。守谷の地は元来農耕地帯として繁栄したところであったが、そこには森林も茂り、台地も存在しているので、牛馬も飼育されていたものと思われる。
 相馬郡は鎌倉時代以前から、室町時代前期に至るまで、伊勢神宮の御厨であったので、神宮の神馬はすべて相馬郡から献上されたものであった。このように数多くの名馬が産出したことから、馬に関する行事や、祭事等が当時は盛んに実施されたらしい。現在、福島県相馬の地で、盛大に実施されている相馬野馬追いの行事も、相馬氏が陸奥の行方の地を頼朝から授けられて移住するときに持参したものといわれている。野馬追いは、放牧してある野馬をすばやく捕える行事で、武装した武士が訓練の一環として実施する勇壮な行事であった。元来この行事は、相馬氏が奉斎する妙見神社の神前で実施されたもので、その神霊を慰め、それをもって相馬軍団の偉容を天下に誇示したのであろう。しかし、守谷の地では、この行事はすっかり滅び、相馬家が移住した奥州相馬の地においては盛んに行われ、天下の名物になっているのである。これは一体どのような理由によるものであろうか。
 守谷城を中心とした相馬氏は、豊臣秀吉の小田原城攻略によって、北條氏の輩下であったことから、滅亡の運命をたどり、守谷城には秀吉輩下の木村・浅野の両将が入城した。ここに、将門以降から種々の関係があった、相馬氏の拠点守谷の地は、一瞬にして豊臣氏の領有に帰し、相馬の伝統は崩れた。一族郎党は思い思いに野に下り、新開地をみつけて帰農した。その中には、守谷の地に留まった人も多かったことであろう。それからしばらく経過した江戸時代の初期、守谷城も廃城になり、師常以来四百年も栄えた城は遂に消え去った。
 それにひきかえ奥州の相馬氏は、江戸時代になっても徳川氏の庇護のもと、いよいよ繁栄し、野馬追いの行も妙見社前で、盛大に実施された。明治になって、相馬藩は解体したが、相馬氏の偉徳を偲ぶ人々が相集い、そ事の行事を残し、現在になっても盛大に行われているのである。