戦国時代に領主層は、その家の周囲に土塁をめぐらし、壮大な武家屋敷に住んでいたが、庶民の生活は一般に貧しかった。
最近県南地方の集落を発掘調査したところ、平安時代末期より鎌倉時代前期頃の集落のほとんどが、竪穴式住居であった。鎌倉時代から室町時代に移行する頃になると、床面が地表に出てくる住居が次第に多くなっていった。それでも住居は掘っ立て柱で、柱は縄や蔓で結び、屋根は茅や藁でふいてあった。入口の戸はほとんどが筵戸で、それは江戸時代頃まで続いたようである。
戦国時代末期頃作られた『落穂集(おちほしゅう)』をみると、常総地方のことが入念に記録してあるが、それをみると、名主(なぬし)の家でさえも床がなく、畳のない家がほとんどであったという。
その頃の農民は、重い貢納を負わされた上に、戦にかりたてられた。農民は武具を畦に置いて農耕に従事し、城からの警報により、武具をかついで馳せ参じた。家に残された老人や、妻子の苦労は大変なものであった。なお、農民の場合は、軍役の仕事が主で、戦場では、足軽、槍持、旗持などの仕事を命ぜられ、それに農民全部が召集されたものではなく、丈夫な男子が召集されたようである。
一度戦の場となったところは、その被害は甚大で、農作物は荒され、家屋等は焼き払われた。このことについては、先述したように、多賀谷軍が相馬領内に侵入したり、また、他の軍団の侵略の様相によっても、理解されることである。
註(1) 一言主神社社記と本殿に刻印された相馬の家紋
(2) 北條氏綱の長女で、その婿にあたるのが古河公方晴氏である。その子の氏繁は逆井城主となる。
(3) 北下総地方史 今井隆助著
(4) 北條氏直から相馬左近大夫によせた書状。この書状は取手市広瀬省一氏所蔵
(5) 享保三年の覚 佐怒賀修一氏所蔵
(6) 天正二年文書 中村正巳氏所蔵
(7) 北條氏政より相馬左近大夫によせた書状。この書状は取手市広瀬省一氏所蔵。
(8) 相馬文書 相馬一家連名帳
(9) 守谷城実地調査による