天正十八年(一五九〇)五月、豊臣秀吉は小田原の北條氏政、氏直父子を討伐するため、全国の大名を動員して兵を関東に進めた。その兵は関東の各所に分散していた北條氏勢力下の支城を次から次へと攻略して、漸次戦果を収めたが、そのうち一手の兵は浅野長政、木村重滋(ます)がひきいてまず現在千葉県松戸市にある小金城(別名、開華城)を攻めた。当時、城主高城胤則は家臣をひきいて小田原城に詰めていたので、その留守を守るため、安蒜(びる)備中守、吉野縫殿介、日暮又左衛門ら二〇〇余人の軍勢はいたが、優勢な攻撃軍には到底敵することができず、遂に城を開いて降伏した。こうして小金城を接収した浅野、木村の両将はそのまま北上して相馬郡に進入し、北條氏幕下の原、河村などの土豪を屈服させ、ついに北條氏が北総唯一の勢力拠点としていた守谷城に迫ることになった。そのころ守谷城主は相馬治胤といい、かつては下総国きっての名族であったが、南北朝時代以降家勢とみに衰え、戦国時代末期には辛うじて北條氏の庇護の下にその命脈を保っているに過ぎなかった。しかし、なお名族たるの誇りを捨てず、守谷城を本城として高井城(現、取手市)に小次郎胤永を、筒戸城(現、谷和原村)に小三郎胤房を、菅生城(現、水海道市)に越前守胤貞を、大木城(現、守谷町)に駿河守胤清を配して、その所領の支配を固めていた。以上のうち大木城は現在大木に出兵(でっぴょう)という地名でのこっている。そこが大木城の跡といわれているが、その所在地は大野川の上流、水田を挾んで高崎山と相対する台地で、城というよりはむしろ砦であったと考えられる。このように相馬氏は一族を各支城に配して守りを堅固にしていたが、なにぶんにも孤立無援、優勢なる浅野、木村の大軍には抗することができず、一戦も交えることなく、相馬一族はついに所領を失うにいたった。時に天正十八年七月五日である。