家康の行った関東知行割によって、菅沼定政は下総国守谷に一万石を宛行われてその城主になった。守谷城は先に述べたように北條氏と運命をともにして没落した相馬氏の居城であったが、定政が守谷へ移ってからこれに修復を加え、そのまま居城に定めたもので、定政が知行として与えられた一万石の領地は次の各村にわたっていた。
乙子、小山、鈴塚、高野、同地、赤法花、立沢、野木崎、大木、守谷(以上現、守谷町)
戸頭、米野井、野々井、稲、大鹿、取手、市ノ代、上高井、下高井、貝塚(以上現、取手市)
坂手、報恩寺、大塚戸、菅生(以上現、水海道市)
青古新田、長渡呂新田、青木(以上現、伊奈村)
神田山、幸田(以上現、岩井市)
こうして近世初頭にあたり、初代守谷城主として入城した菅沼定政は鋭意旧相馬氏の遺領を治め、その復旧をはかるとともに城下町としての「町」づくりにつとめたので、守谷は周辺の村落とは異なった環境を呈し、それがやがて「町」を形成する基盤となったのである。