土岐氏の経歴

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 初代守谷城主となった菅沼定政は本姓を土岐氏といい、清和源氏の流れをくむ美濃国の守護大名土岐氏の一門であった。定政の父は定明といい、天文二十年(一五五一)美濃国多芸(たき)郡に生まれ、名を藤蔵とつけられた。翌、天文二十一年(一五五二)、父は守護土岐頼芸(よりあき)に反逆を企てた斎藤道三と戦って討死したため、家臣が幼い藤蔵を敵手から守ろうと、藤蔵の母の伯父にあたる菅沼常陸介のもとに預けて養ってもらうことにしたので、以来、藤蔵は菅沼姓を用いることになった。藤蔵は成人ののち菅沼藤蔵として徳川家康に仕え、しばしば戦功を立て重用され、天正十年(一五八二)三月、甲斐の武田勝頼が天目山に亡び、その遺領の一部が家康の所領となるや、家康は同国巨摩郡切石一万石を定政の知行として与えた。そこで定明は切石に菅沼城を築き、天正十八年(一五九〇)までその城主として領国を支配していた。
 やがて関東一円が家康の領地となり、家康が関東に入部して家臣に対する知行割を行うや、先に述べたように菅沼定政は下総国守谷一万石の領主として封ぜられたため、甲斐国より下総国へ移ることになった。時に天正十八年(一五九〇)九月である。このとき定政は菅沼姓を改め本姓にかえって土岐定政と称し、山城守に任官し従五位下に叙せられた。その後、定政は守谷城主としてわずか七年後の慶長二年(一五九七)三月三日、病を得て城中において没した。時に四十七歳であった。定政の子定義、父の跡を継いで山城守に任じ、守谷城主として在城中、慶長十九年(一六一四)十一月の大坂冬の陣、翌元和元年(一六一五)五月の夏の陣両度の戦役のとき、定義は家康の命を受けて江戸城の留守をよく守ったというので、戦後一万石加増の上、摂津国高槻(現、大阪府高槻市)に移封された。しかるにその定義もまた元和五年(一六一九)一月八日、歳四十にして没したため、その子頼行が跡を継ぐことになった。しかし、高槻城は関西でも要衝の地であるから、幼少の頼行では到底その任に堪えられないという幕府の判断で、一万石減封のうえその年再び祖父定政の故地である守谷に封ぜられることになった。それから九年、守谷は土岐氏の支配下にあったが、寛永五年(一六二八)二月、頼行は祖父定政、父定義の功により、一万五〇〇〇石加増の上奥州上の山(現・山形県上山市)へ転封となり、これによって土岐氏の守谷支配は終わりを告げることになった。