中央集権制

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 慶長五年(一六〇〇)九月、関ケ原の合戦によって勝利を収めた徳川氏は、豊臣氏よりその政権を奪い、はじめて徳川政権をうちたてた。そこで朝廷においてもこの事実を踏まえ、同八年(一六〇三)二月、新たに家康を征夷大将軍に任命したので、家康はその居城の地江戸に幕府を開き、名実ともに天下の覇者となった。それ以来、徳川氏は日本の権力者として武家の棟梁たるの地位を得、大名をはじめ全国の武士を統率し、更に土地人民をも支配することになった。こうして出現した徳川幕府は我が国歴史上はじめて見る政治体制で、先の鎌倉、室町時代における幕府とはその体質を異にするものであった。すなわち鎌倉、室町の両幕府は単に全国の守護、地頭を統轄し、領国における末端支配はそれぞれ守護、地頭に任せていたのに対し、徳川幕府は大名を統轄するとともに、その末端支配にいたるまで一元化を図ったところにその相違を見たのである。ゆえに鎌倉、室町、江戸幕府はともに同じ封地知行制の支配形態であっても、鎌倉、室町時代はこれを地方分権的封建制といい、江戸時代はこれを中央集権的封建制といった。
 こうして政治の中央集権化を図り、絶大な経済力と軍事力とを背景にして成立した徳川幕府は、その機構もまた末端支配に適するように整備された。幕府権力の頂点にはまず将軍を置き、その下に老中(臨時職として大老)数名から成る集団指導体制をとり、それによって中央及び京都、大坂など地方政治に関する政務を担当させ、更に若年寄数名を置いて江戸城中における庶務をつかさどらせた。また、中央の政治機関である老中の下には寺社、勘定、町の三奉行を置き、特に地方(じかた)の仕方(政治)については勘定奉行の下に郡代又は代官と称する出先機関を設け、その下に一般農民を統率するため地方(じかた)三役(名主、組頭、百姓代)の制度を置き、その系列によって中央の政治が直ちに地方につながる仕組みになっていた。