幕藩制の造出

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 更に幕府は関ケ原合戦後、その戦後処理としてしきりに大名の改易や国替えを行い、幕府の実力を示すとともに取りつぶした大名や移封によって生じた領地をことごとくその直轄地とした。その直轄地はこれを天領と称した。この天領は幕府の初期においてはおよそ二〇〇万石であったが、その後時代を経るに従い、新田開発や更に改易した大名の領地没収によってその数を増し、江戸時代の中期には実に七〇〇万石を数えるにいたった。この幕府直轄地のなかには関東、近畿、東海、北陸地方などにある商工業の中心地や米産地のほか、駿府、甲府などの軍事的要地、大坂、京都、長崎、堺などの政治的要地や商工業都市、佐渡、生野、伊豆などの金山や銀山の所在地が含まれていた。そこで幕府はその広大な領地を支配するため、京都には京都所司代、大坂には大坂城代、駿府には駿府城代、その他長崎や堺にもそれぞれ奉行を任命し、更に各地の領地には関東郡代、美濃、伊勢の両国には美濃郡代、飛驒には飛驒郡代、九州一円の幕領を支配する西国郡代を、またその他の地方には代官を配置してこれを支配した。それと同時に全国の大名は幕府から所領として与えられた領地を支配するため、これまた幕府と同じような統治機関を設けて領国支配を行ったが、その統治はあくまで幕府の統制下に置かれていたので、戦国時代における分国大名のように、大名独自の創意による独特の支配を行うことは許されなかった。このように中央には幕府という強力な統一政権が存在し、その下部に幕府の統制を受けながらも独立した国家――藩――という政治権力があり、それによって全国を支配することになったので、この国家構成を幕藩体制といい、その機構の下に全国の都市、農村を問わずすべてが支配されていたのである。