往時、我が国の経済は農業を基盤としてその上に構成されたものであるから、その農業にたずさわる農民が社会構成の上では支配階級を除いては、もっとも上位に置かれたことは当然である。従がって身分制度が整備された江戸時代、支配階級によって階級序列が定められたとき、士農工商という言葉が生まれ、農民が支配階級たる武士の次に置かれて他の階層に優位したのである。
江戸時代、農民の地位はこのように高められていたが、それはあくまで封建社会を維持するため、農民の生産力を重視し、それから生れた支配階級の独善的政策で、決して農民の人格を尊重しての階級序列ではなかった。このことについては江戸後期のころ、町人の勢力がもっとも強かった大坂で、町人学者として知られた山片蟠桃がその著『夢の代』に
夫れ百姓は国の本なり、生民の首(はじめ)たり。百姓なくばあるべからず、工商はなくてもすむべし。常に百姓に利を付して上席に置き、工商には損をつけて下席に置くべし。農と商との争論あらば、農には二、三分の勝を附すべし。
と論じ、農民に対しては支配階級的農民観をもってこれを代弁し、更に、
農人は一人にても増すことをはかるべし。商人は一人にても減ずるを欲すべし。また百姓に工商を禁ずべし。これ国を富ます要法――中略――都会市井の民を虐(しいた)げて、農民を引立て耕作をすすむる政事をする、これ第一の枢要とす。
と説き、農業を基盤とする考え方をそのまま表現し、農民優位、農業第一主義の立場をとった。また、蟠桃よりやや時代をさかのぼった江戸中期の学者大宰春台も、農業は立国の大本であるとその著『経済録』では次のように述べている。
民の業に本末ということあり。農を本業といひ、工商賈(こ)を末業といふ。四民は国の宝にて一つ欠けても国といはず、然れど農民少ければ国の衣食乏しく成る。故に先王の始めには殊に農を重んぜらる。
と、まことに国家は農民によって支えられているかのような印象を与える考え方を示している。これによって見ても支配階級がいかに農民の存在を重視していたかを知ることができる。したがって支配階級の農民に対する支配方策は微に入り細にわたり、これを統制するためには農民の人格などは全く無視し、その地位を高く工商の上に置いたのとは相反し、残酷冷淡を極めて余すところもなかった。ゆえに先に述べた階級序列で農民が武士の次に置かれたのも、要するに農民の生産力が武士支配の封建社会を維持するために必要であったことから、そのように好餌を与えてこれを遇したのに過ぎないもので、その実態は工商よりはるかに劣っていたのが実情であった。