支配領主の交替

200 ~ 210 / 434ページ
 寛永五年(一六二八)二月、土岐頼行が守谷を去ったあと、旧守谷町は伊丹播磨守その子利右衛門、その子の彦左衛門父子三代にわたって旗本の知行所となったが、寛永十九年(一六四二)一月、堀田加賀守正盛という大名が信州松本から下総の佐倉へ移封になり、改めて一三万石を与えられることになったので、旗本の伊丹氏は知行地替えとなり、そのあとは堀田藩領に編入された。これに関しては斎藤家所蔵文書のうち『覚書』に
  堀田加賀守様領分
  同 備中守様
   右は寛永中より寛文六未年まで当所に御陣座これあり近郷一万三千石領す
 と誌してある。この文書にある加賀守とは正盛のことであり、備中守とはその子の正俊のことである。正俊は父正盛の領地一三万石のうち一万三〇〇〇石の所領を分与されたが、この時正俊は齢(とし)わずかに十二歳であったから、自らは守谷へ赴かず、ここに陣屋を置いて成人に達するまで政務は家臣にまかせていたのであろう。こうして堀田正俊の支配下にあること二十七年、やがて正俊は寛文七年(一六六七)六月、七〇〇〇石加増の上、上野国安中(現、群馬県安中市)に移されたので、守谷は堀田氏の支配から離れることになり、その後一時幕府領に編入され、代官として曽根五郎左衛門、雨宮勘兵衛が支配した。しかし、それもわずか二年の短い期間で、寛文九年(一六六九)には酒井河内守忠挙が一万石の大名に封ぜられて守谷城へ入部した。ところがその酒井忠挙も十二年後の天和元年(一六八一)二月、父忠清の封を受け、その家を継ぐため上野国厩橋(現、群馬県前橋市)城主となったので、守谷は再び空城となった。
 ここに明治八年(一八七五)六月、同地村の旧名主飯島氏が作成した『第十四大区六小区廿三村町沿革』と称する史料がある。この史料は当時の大小区制下における二三町村の村高、租税及び支配者の交替を年次的に記録したもので、二三町村のうちには現在取手市に属する市ノ代、戸頭、稲、米之井、貝塚、野々井、上高井、下高井の各村も含まれているが、その分を除き、現在、守谷町に属する各村における支配者交替の状況を、この史料に基づいて次に掲げることにしよう。
鈴塚村
第十四大区六小区 鈴塚村
寛文十三癸丑年二月中 酒井河内守領分
天和元酉年十一月中 代官(不明)
延享四卯年四月 徳川右衛門督(うえもんのかみ)
明治三庚午四月中 葛飾県管轄
明治五壬申年正月中 印旛県管轄
明治六酉年七月 千葉県管轄
板戸井村
第十四大区六小区 板戸井村
寛文九年酉十月 一色右京知行
寛文十二年子三月 酒井河内守領分
天和二年戌 牧野備後守領分
宝永三年戌 久世大和守領分
延享四年卯六月 田安領知
明治三年午 葛飾県管轄
明治五年申正月 印旛県管轄
明治六年酉七月 千葉県管轄
立沢村
第十四大区六小区 立沢村
慶安年間ヨリ寛文六午年迄 堀田備中守領分
寛文七未年 代官
雨宮勘兵衛
支配
曽根五郎左衛門
寛文九酉年 酒井河内守領分
天和元酉年 代官
近山六左衛門
支配
万年長十郎
元禄八亥年 牧野備後守領分
宝永三戌年 久世大和守領分
延享四卯年 田安右衛門督領分
明治三庚午年二月 葛飾県管轄
明治五壬申年正月 印旛県管轄
明治六酉年七月 千葉県管轄
大木村
第十四大区六小区 大木村
寛文九年酉十月 一色右京知行
寛文十二年子三月 酒井河内守領分
元禄十一寅年二月 牧野備後守領分
宝永三戌年四月 久世大和守領分
延享四年卯四月 代官
伊奈半左衛門支配
延享四年卯六月 徳川右衛門督領分
明治三庚午年 葛飾県管轄
明治五壬申年正月 印旛県管轄
明治六年七月ヨリ 千葉県管轄
乙子村
第十四大区六小区 乙子村
寛文十三癸丑年二月中 酒井河内守領分
天和元年酉十月中 代官
万年長十郎支配
延享四卯年中 田安領知
明治三庚午年四月中 葛飾県管轄
明治五壬申年正月中 印旛県管轄
明治六年七月中 千葉県管轄
高野村
第十四大区六小区 高野村
永禄十一辰年ヨリ 相馬弾正大弼領分
天正十八寅年ヨリ 土岐山城守領分
寛永五午年ヨリ 伊丹播摩守知行
寛永十三子年ヨリ 代官
伊丹彦左衛門支配
寛永十九午年ヨリ 堀田加賀守領分
慶安三寅年ヨリ 堀田備中守領分
寛文七未年ヨリ 代官
曽根五郎左衛門
支配
雨宮勘兵衛
寛文九年ヨリ 酒井河内守領分
天和元酉年 代官
万年長十郎
支配
近山六左衛門
天和二戌年ヨリ 牧野備後守領分
宝永四亥年ヨリ 久世大和守領分
延享四卯年ヨリ 田安領知
明治三午年ヨリ 葛飾県管轄
明治未年十二月ヨリ 印旛県管轄
明治六年七月ヨリ 千葉県管轄
野木崎村
第十四大区六小区 野木崎村
寛文十二子年ヨリ 酒井河内守領分
延宝七未年ヨリ 代官
近松六左衛門
支配
万年長十郎
天和二戌年ヨリ 牧野備後守領分
宝永三戌年ヨリ 久世大和守領分
元文五申年ヨリ 代官
幸田喜太夫支配
寛保三亥年ヨリ 代官
木村雲八支配
寛延二巳年ヨリ 代官
吉田久左衛門支配
寛延三午年ヨリ 代官
稲垣藤左衛門支配
宝暦四戌年ヨリ 代官
小田切新五郎支配
宝暦六子年ヨリ 代官
前沢藤十郎支配
宝暦十辰年ヨリ 代官
渡辺半十郎支配
明和元申年ヨリ 清水領
寛政八辰年ヨリ 代官
野田文蔵支配
寛政十二申年ヨリ 代官
浅岡彦四郎支配
文化五辰年ヨリ 代官
山上藤五郎支配
文化六未年ヨリ 代官
布施孫四郎支配
文化十酉年ヨリ 代官
岸本武八支配
文化十一戌年ヨリ 代官
伊奈友之助支配
文化十二亥年ヨリ 代官
羽倉外記支配
嘉永三戌年ヨリ 代官
岩田鍬三郎支配
平岡対馬守知行
嘉永五子年ヨリ 代官
佐々木道太郎支配
平岡対馬守知行
本多加賀守知行二分郷
代官
篠本彦次郎支配
安政四巳年ヨリ 平岡対馬守知行
本多加賀守知行
代官
篠本彦次郎支配
安政五午年ヨリ 平岡対馬守知行
本多加賀守知行
石川能登守知行分郷
薬師寺筑前守知行
明治三午年四月ヨリ 葛飾県管轄
明治四未年十二月ヨリ 印旛県管轄
明治六年七月ヨリ 千葉県管轄
赤法花村
第十四大区六小区 赤法花村
慶安元子年ヨリ寛文六年迄
堀田備中守領分
寛文七未年ヨリ 代官
雨宮勘兵衛
支配
曽根五郎左衛門
寛文八申年ヨリ延宝八庚申年迄
酒井河内守領分
天和元辛酉年 代官
万年長十郎
両支配
近山六左衛門
天和二壬戌年ヨリ元禄二己巳年迄
牧野備後守領分
宝永三丙戌年ヨリ延享四丁卯四月迄
久世大和守領分
代官
延享四卯年五月六日迄 伊奈半右衛門支配
同年五月廿九日ヨリ明治三午年正月迄
田安中納言領知
明治三午年二月ヨリ 葛飾県管轄
明治五壬申正ヨリ 印旛県管轄
明治六年六月ヨリ 千葉県管轄
守谷町
第十四大区六小区 守谷町
慶長年間ヨリ元和年間迄 土岐山城守所領
寛永年間 伊丹播摩(磨)守
伊丹利左衛門所領
伊丹彦左衛門
寛永十九年 堀田加賀守所領
寛文六未年 代官
曽根五郎左衛門
支配
雨宮勘兵衛
寛文九酉年 酒井河内守領分
天和元酉年 代官
近山六左衛門
支配
万年長十郎
天和三年 牧野備後守領分
宝永二酉年 久世大和守領分
明和七年寅年 久世斧三郎知行
天明七未年十二月 久世大和守領分
明治二年巳八月 関宿藩管轄
明治四年末七月 同上
明治五年申正月 印旛県管轄
明治六年酉七月 千葉県管轄
辰新田
第十四大区六小区 辰新田
寛永年間 伊丹播摩守
伊丹利石衛門
所領
伊丹彦左衛門
寛永十九年 堀田加賀守所領
寛文六未年 代官
曽根五郎左衛門
支配
雨宮勘兵衛
寛文九酉年 酒井河内守領分
天和元酉年 代官
近山六左衛門
支配
万年長十郎
天和三亥年 牧野備後守領分
宝永二酉年 久世大和守領分
明和七寅年 久世斧三郎知行
天明七未年十二月 久世大和守領分
明治二年八月 関宿藩管轄
明治五年五月 印旛県管轄
明治六年七月 千葉県管轄
同地村
第十四大区六小区 同地村
慶安元子年ヨリ寛文六午年迄
堀田備中守領分
寛文七未年ヨリ同年 雨宮勘兵衛
支配
曽根五郎左衛門
寛文八申年ヨリ延宝八庚申年迄
酒井河内守領分
天和元辛酉年 万年長十郎支配
近山六左衛門
天和二壬戌年ヨリ宝永三丙戌年迄
牧野備後守領分
宝永三丙戌年ヨリ延享四丁卯四月マデ
久世大和守領分
延享四卯年五月六日ヨリ 伊奈半左衛門支配
同年五月二十九日ヨリ明治三午年正月マデ
田安中納言領知
明治三午年二月ヨリ 葛飾県管轄
明治六年六月ヨリ 千葉県管轄
奥山新田
第十四大区六小区 奥山新田
寛文十二子年ヨリ 酒井河内守領分
天和元酉年ヨリ 万年長十郎支配
天和二戌年ヨリ 牧野備後守支配
宝永三戌年ヨリ 久世隠岐守領分
延享三卯年ヨリ 田安右衛門督領知
明治二午年ヨリ 葛飾県管轄
明治五申年ヨリ 印旛県管轄
明治六酉年ヨリ 千葉県管轄
小山村
第十四大区六小区 小山村
寛文八申年ヨリ 酒井河内守領分
天和元酉年ヨリ 万年長十郎支配
天和二戌年ヨリ 牧野備後守領分
宝永三戌年ヨリ 久世隠岐守領分
延享四卯年五月 田安右衛門督領知
明治三庚午年正月 葛飾県管轄
明治五壬中年正月 印旛県管轄
明治六年七月 千葉県管轄
大柏村
第十四大区六小区 大柏村
寛文九酉年ヨリ 一色源次郎知行
元禄十一寅年ヨリ 牧野備後守領分
享保十八丑年ヨリ 久世讃岐守領分
延享三寅年ヨリ 田安領知
明治三年三月ヨリ 葛飾県管轄
明治六年七月ヨリ 千葉県管轄
大山新田
第十四大区六小区 大山新田
寛文九年酉十月 一色右京知行
宝永三年戌四月 久世大和守領分
延享四年卯四月 伊奈半左衛門支配
延享四年卯四月 徳川右衛門督領分
明治三年 葛飾県管轄
明治五年申正月 印旛県管轄
明治六年酉七月 千葉県管轄

 以上、引用した史料は明治七年一〇月、明治新政府が各町村に対し、江戸時代、支配者の交替ごとに提出させていた『村方明細書上帳』の例にならい、『一村限調帳』という名称をつけて中央政府に提出させたもので、その内容は
  一、町村の境界、一、町村の範囲、一、町村から県庁までの距離、一、寒暖の差異、一、戸数、一、人口、一、寺社、一、牛馬の数、一、牛馬以外の動物の数、一、船舶の数、一、耕地宅地及び山野税、一、物産、一、旧高、一、支配の沿革、一、検地の沿革、
などを詳細に記したものである。それを編集者の同地村旧名主飯島氏が、支配者の沿革と旧高及び検地の沿革のみを抜粋して一帳にまとめたのがこの史料で、その史料のうち支配者の沿革だけをここに採録したのである。
 いまこれを一覧すると天正十八年(一五九〇)土岐定政が初めて守谷城主として就封してから以後、かつて土岐氏の支配下にあった地域における支配領主の変遷はすこぶる多岐にわたり、中にはその支配の時期において差違や矛盾を呈している点も往々にして見られるが、それは恐らく『一村限調帳』の提出を求められたとき、各村がそれそれ村の旧記などに基づいて作成したもので、旧記が完全に保存されていた村では正確な調査が行われたが、そうでない村では他の旧記や語り伝えなどを参考にして作成したと見え、そこに支配関係の時期的差違や矛盾が生じたものであると考えられる。