支配領主の固定化

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 以上のように守谷町周辺における村落の支配関係は幾多の変遷を経たが、ようやくそれが固定したのは延享四年(一七四七)、鈴塚、板戸井、立沢、大木、乙子、高野、赤法花、同地、小山、奥山新田、大山新田の各村が田安家の領知に編入されてからのことである。この時同家の領知に編入されなかったのは守谷町と野木崎、辰新田だけであったが、守谷町と辰新田はすでに宝永二年(一七〇五)以来、関宿藩久世氏の領地に編入され、野木崎村もまたそのころ関宿藩領になっていた。ところがその後元文五年(一七四〇)にいたり、幕府は関宿藩領のうち野木崎村一村の領地を召し上げてこれを直轄領とした。その後また明和元年(一七六四)になってから一時野木崎村を清水家の領知として宛行ったが、寛政八年(一七九六)再びこれを幕府領に編入することになった。しかるにそれから五四年後の嘉永三年(一八五〇)にいたり、野木崎村のうち四〇五石余を平岡石見守の知行所とし、さらに安政五年(一八五八)本多加賀守、石川能登守、薬師寺筑前守らの分郷支配となったため、野木崎村全村は幕府の直轄領から離れ、四領主によって支配されることになり、それがそのまま明治維新にいたるまでつづけられたのである。
 江戸時代、現在の守谷町域に含まれている旧町村の支配関係は前記のとおりであるが、そのうち領分(領地)というのは大名の所領、知行というのは旗本の所領、代官支配というのは幕府領、領知というのは田安(徳川右衛門督)・清水両家の所領のことであり、分郷支配とは一村内に数人の領主が存在する村落のことである。この分郷支配村は別に相給領ともいい、その村の名主は支配領主の数によって○給名主と呼んだ。例えば野木崎村のように四人の支配領主のいる場合はこれを四給名主と称したのである。
  註 田安、清水両家は更に一橋家を加えてこれを御三卿といい、この三卿は徳川将軍家の家族として遇せられ、紀州、尾張、水戸の御三家につぐ家柄として重きをなしていた。はじめ八代将軍吉宗の次子宗武が田安家を興し、四子宗尹(ただ)が一橋家を立て、九代将軍家重の次子重好が清水家を創(はじ)めたが、最初この三家は将軍家の家族であるという建前から、ただ一〇万石の蔵米(現物米)を支給していた。しかるに延享四年(一七四七)にいたり、幕府はその処遇を改め、蔵米に代わり各地の幕府領から一〇万石に相当する所領を与えることになった。その所領を特に領知と称した。