守谷町

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 中世、すでに下総の豪族相馬氏の本拠として発展し、その支配を受けていたところだけに歴史的由緒も深く、ことに近世にいたり相馬氏没落後、土岐定政一万石の領主としてこの地に封ぜられるや、鋭意旧相馬氏の城池を治めてその復旧を図り、城下町としての体裁を整えるため町づくりにつとめたので、守谷は周辺の村落とは異なった環境を呈していた。
 町づくりは何といっても城が中心であった。現在、守谷町の中心にあって市街地を成している場所は、昔の銚子街道に面しているところで、そこには町役場、郵便局などの公共機関がある。旧城址は町役場の隣りにある小林医院のところから丁字形に北に向かって、一直線に延びる道路を奥の方に入ったところにある。途中、城の大手に当たる通称二本松と呼ぶところがある。その辺は小字を番場といい、その昔、城中の武士たちが乗馬の練習をしたところから馬場と呼んでいたのが、いつの頃からかその「ババ」が「バンバ」に転訛したのだと伝えられている。
 二本松には古い土塁の跡が今もなお歴然として残っており、その土塁の両側にはかつて二本の巨松が亭々としてそびえていたので、それがため二本松と呼ぶようになったというが、今はその松も枯死したため伐採されたので、その跡だけが残っている。二本松のあった土塁から奥はいわゆる城郭内で、そこには二五軒、九左衛門屋敷などと呼ばれる地名が残っている。二五軒とは相馬氏没落後最初に入城した土岐氏の重臣二五人の屋敷跡のあったところであり、また、九左衛門屋敷というのは土岐氏の家老井上九左衛門の屋敷のあったところであると伝えられている。更に現在の南守谷駅附近を通称足軽町と呼んでいるが、そこは土岐氏在城の当時、土岐氏の足軽が集団居住していたところであるといわれている。
 守谷町は城郭部分を除いては西北より東南に走(はし)る一筋の道路に沿って発展した、いわゆる街道集落で、昔は西北より上町、仲町、下(しも)町に分かれて一応、城下町としての形態を備えていた。上町、仲町、下町はまた別に上宿、仲宿、下宿(しもじゅく)ともいい、町全体が銚子街道の宿駅としての機能を果たしていたもののようである。しかし、それも町並より一歩裏側にそれれば周囲は農村的環境に包まれ、同じ守谷町という町域でありながら、町並に面しているところは城下町としての体裁を備えているのにかかわらず、その町裏はまったくそれに反した側面を持つ特異なところである。したがってその住民の生活も町方では多く商業を営み、村方では農業に携わるという事情のもとにおかれ、町民の生活様式もまたそれぞれ異なっていた。
 守谷は天正十八年(一五九〇)土岐定政が城主として入城してから、天和元年(一六八一)最後の城主酒井忠挙が転封になるまで実に九十一年間、城下町として繁栄した町である。その後守谷は関宿藩領に編入されたとはいえ、町としての機能はそのまま存続し、この地方における経済、文化の中心地であったと考えられる。したがってこの守谷町を中心にしてある程度の商業が発達したことは否定できない。そこでこれに着目したのが近江商人である。
 近江商人とはその名のとおり近江国(現、滋賀県)八幡(現、近江八幡市)附近出身の商人のことで、その起源はこの附近は古代帰化人の入植者が多く、その子孫たちは算数商業に卓越した素質の伝統が後世になってから商人を生む素地をつくったともいわれている。しかし、それとは別に近江国が東西交通の要衝にあたり、畿内先進圏において生産された物資を、後進圏たる東国へ輸送するための業務に携わっているうち自然商業的要素を帯び、それがやがて商人として発展するにいたったともいう。しかもその近江商人はもともと行商をもって本領としていた。それで行商人は天秤棒(てんびんぼう)を肩にして地方の物産を諸国に売り歩いたので「近江の千両棒」といわれ、天秤棒一本から生みだす利益は極めて莫大なものであった。その商人が活躍した時期は戦国時代の末期から江戸時代の初期にかけてのことで、その時期に、近江商人たちは地方へ散在して活発な商業活動を展開し、後世いわゆる近江商人としての名声を得る基礎を築いた。
 北総地方に近江商人が進出してきたのはいつごろか、その時期は明らかではないが、少なくとも江戸時代初期のころであると思う。それは後に述べる鬼怒川開削によって水運が開け、江戸との交通が盛んになった時期でもあるから、そのころ近江商人はまず江戸にその商業基盤を築き、そこを基地として関東一円に散在することになった。しかし、近江商人はもともと行商を本領としていたのであるが、中ごろはその行商によって蓄積した財力と、行商によって拡張した商圏を基盤とし、一定の場所に定住して店舗を構え、在郷商人として成功する者が多くなった。
 守谷町には庚塚(かのえづか)という地名がある。その庚塚附近は古くから通称鍋山と呼んでいる。鍋山とは鍋屋という守谷町在住の豪商が所有していた山林なので、誰いうとなくそう呼ぶようになったのだと伝えられている。その鍋山を所有していた鍋屋はもと近江商人で、いつのころからか守谷町に在住し、店舗を開いて相当手広く商売をやっていた。ところがその鍋屋は何かの事情で守谷町を転退することになったので、その跡式一切を引き受けたのが、そのころやはり近江商人の一人として守谷町に在住していた田中氏であるといわれている。
 すでに述べたように、守谷町は中世期に下総国相馬郡に君臨した豪族相馬氏の本城のあるところとして、この地方における政治の中心地であったところへ、近世にいたるや土岐、堀田、酒井など諸侯の城下町として繁栄し、その間、近江商人の進出などによって在郷都市の形態を成し、それが漸次発展を見るにいたったのである。このように守谷町が在郷都市として発展するにいたった過程には、守谷町がひとり城下町であるということだけではなく、その背景を成するものとしては町の東部を流れる小貝川左岸、つまり現在の伊奈、谷和原村あたりには広大な稲作地帯が広がり、その地方より生産される米穀その他の物資を守谷町の商人が買い付け、それを交易して大いに商業を盛んにした事実を見逃すことはできない。
 このように守谷町は近世の初期、既に城下町として町勢発展の基礎を築き、その後、領主の交替によって城下町としての性格を失ったが、なお在郷都市としての要素を残したまま、守谷は「町」として現在に及んでいるのである。