野木崎村

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 野木崎は鬼怒川が利根川に合流する地点に当り、その左岸に位置する村落で、中世には野毛崎または野介崎と称していたものとみえ、『岩松文書』や『相馬文書』にはそのように書いた史料が散見される。例えば、『岩松文書』の弘安元年(一二七八)、『岩松経兼譲状』に「下総国相馬御厨内野毛崎村云々」また『相馬文書』には「下総国相馬郡御厨内、手賀、布勢(施)、藤意(心)、野介崎、地頭職事云々」などの記事がそれである。
 さて、それはしばらくおき、いま野木崎村の地勢を見るに、利根川沿岸一帯はすべて低湿地帯に属し、その他はおおむね台地をもって構成され、これを土地利用の面から見れば低地は稲作に適し、台地は畑作に適している。その稲作に適しているところに特に「塙耕地」と称する水田がある。水田の面積は約一〇町歩(一〇ヘクタール)であるが、この水田については次のような史話が野木崎村の旧家椎名家に伝えられている。これについては東京学芸大学歴史研究室内近世史研究会発行『下総国相馬郡野木崎村研究調査報告――椎名半之助家文書を中心に』に掲載されている論稿の一部を抜粋して掲載することにしよう。
   元和元年(一六一五)には、徳川家康が鷹狩りのために当地を訪れ椎名家に宿泊したという。『徳川実紀』第二編の元和元年十月の項に、家康がこの附近を鷹狩りのために訪れたことが記されている。それによれば、九月二十九日駿府を立った家康は、十月十二日江戸に着き、その後、蕨、川越、忍、岩槻、越谷、葛西、千葉、東金、船橋等の地を、「狩したまひながら、民政の得失、郡吏の善悪、農民の患苦を糺察し給えば、遠近の百姓状を捧げ、小吏の残暴をうたふる者多し」という旅をしたという。また宮内庁刊『放鷹』によるとその時の一行は、かごに乗った側室三人、馬に乗った女房衆一八人、それに蜂屋九郎左衛門の士卒五〇人であったという。椎名家に伝わる家康来訪の伝承は、この鷹狩旅行の時のものであろう。その時の天候は大雨で、鬼怒川の流れ(註、元和二年のころは鬼怒川はいまだ開削されていなかったから、利根川の誤りであろう)は急であり、舟を渡すのは困難であったが、家康はガマンをしろと舟夫に命じて川を渡った。この地をガマンの渡と呼ぶのはこのことに由来するという。親祐(註、椎名家三代の祖)はこの際の功に依り、立野九段九畝九歩及び太刀一口を賜わったというが、残念ながら朱印状のようなものは残っていない。
 この史話は単なる伝承であるか、また、事実であるか、いまそれを立証する史料がないので明らかではないが、とにかく塙耕地も右の論稿では九段九畝九歩とあり、一〇町歩とくらべて面積の差こそあれ、そのむかし徳川家康より与えられた土地であると伝えられているので、椎名家ではその徳を慕い、屋敷内に東照権現を祭祀し、明治末期ごろまでは毎年家康の命日にあたる四月一七日、盛大な祭礼を行っていたという。また、椎名家のことを塙耕地にちなみ、村民は「塙の家(うち)」と呼んでいた。

椎名家東照宮


椎名家の祖先が徳川家康より賜ったと伝えられる塙耕地の一部

 野木崎村にはこのような史話が伝わるとともに、その成立は中世相馬御厨に属する村落として存在していたが、その村落の歴史はさらに遠く律令時代にさかのぼるものと考えられる。その証左としてこの村の小字には上坪、中坪などと呼ばれている地名がある。坪とは古代に行われた地割制度の遺制で、その地割制度とは条里制のことである。条里制とは古代における土地区画方式で、これを図表で示せば右図のようになる。(六町平方の一画が一里、六町平方の一画内にある三六等分の一画が坪である)

 

 右の図表のように一辺の長さ六町(約六五四メートル)四方の一区画を里または坊といい、これを一郡あるいは数郡を単位にして南北を一条、二条、東西を一里、二里と数える。里は更に各辺を一町ごとに六等分し、溝や畦などで坪と呼ばれる三六の区画に分ける。それが現在坪と称する地名となって残され、しかもその坪の区域は一つの地域社会を構成し、共同体として社会的機能を果たしている。そこで野木崎村における「坪」の地名は古代条里制の遺称として、現在まで存在しているのではないかと考えられる。