大山新田の笠見統治家に『由緒書』という古い記録が残っている。この記録は享保十四年(一七二九)九月二十四日、笠見家何代目かの祖先五郎左衛門が『笠見五郎左衛門繁勝親申し伝え候覚書の事』と題して記録したものである。この記録によればまず次のようなことが記してある。
先祖五郎左衛門繁勝までに五代以前の先祖なり。右の五郎左衛門よりだんだん申し伝え候事は、大山村の鎮守香取または水神二か所の鎮守、開闢勧請(かいびゃくかんじょう)何ごろ始り候とも年数相知れず候。此の屋舗(やしき)のさいかちの木植え候事は五郎左衛門代まで年数百五十年に成り候と申し伝え候事。永禄、天正年[ ]の頃までは大山村百姓余多(あまた)住み、其の比(ころ)相馬殿筒戸村に居住成せられ、筒戸御殿御領分にこれあり候。(註、天正年間、守谷城主相馬左近大夫治胤新たに筒戸城を築き、三子胤房をその城主に置いたことをいうのであろう)則ちその節村[ ][ ]の百姓の名主(以下十数字不明)乱世に成り皆々身を立べき様もなく、村々百姓方々へ逃(に)げちり、其時たいてん(註、退転カ)[ ][ ]五郎左衛門も方々と逃げ候ては世間を見[ ]立帰り帰り/\すること数度なり。然るところ世は少し静かに成られ候て五郎左衛門儀居すわり候なり。
と、この記録によれば大山新田は永禄、天正(一五五八―九一)ごろは百姓も多く居住していたが、守谷城主相馬左近大夫治胤が新たに筒戸(現・谷和原村)に城を築き、大山村をその支配下に置くようになってからどのような変化があったか、記録の文字がその部分判読できないのでわからない。しかし、続く文章によって判断すれば、五郎左衛門繁勝も一時兵乱のため逃れたが、やがて世間の様子を見ながらしばしば立ち戻り、そのうちに乱世も静まったのでついに大山村に住み着くことになったというのである。
大山村の成立は記録にもあるように「鎮守開闢勧請いつごろ始まり候とも年数相知れず候」とあるように、鎮守神たる香取、水神の二社が創建された時をもって成立の時期と考えていたのであろう。その二社がいつごろ創建されたか明らかでないため、記録はこれを漠然と記している。
また、それとは別に永禄、天正のころ既に百姓が多くこの地に住み着き、それが筒戸城主の支配下に属していたとも記されている。これによって見れば、大山村には中世末期にはある程度の集落が存在していたとも考えられる。更に『常総軍記』によれば、永禄、天正のころ以前に下妻城主多賀谷高経が結城、猿島二郡の諸城を攻略しようとしたとき、その諸城の危急を救わんとして、馬洗(現・岩井市)の横瀬主膳、菅生(現・水海道市)の石塚権兵衛、内守谷(同上)の橋本石見、大山の大山大学らの土豪が七〇〇余騎を率きいて馳せ参じたと記されている。それはおそらく天文年間(一五三二―五四)のことであろうが、そのころこの地方にも在地武士と称する土豪が、戦国争乱の時代を背景にして、さかんに勢力争いを繰り返していた時代であるから、常総軍記に名の出ている横瀬、石塚、橋本、大山などもその土豪であったと思う。しかし、軍記に出ている大山村の大山大学という人物の経歴については明らかでない。
更にまた、笠見家の由緒書には、
昔は猿島郡より向ひいたとい(板戸井)当村大日山まで深山続き候所なり。しかるにさしま(猿島)より野火出来して毎日焼る。其野火にて正月廿四日の頃、先祖の居宅を焼け云云
とある。この火災はいつごろのことか判らないが、板戸井村から大山村までつづいて深山であったというから、おそらく鬼怒川開削以前、すなわち江戸時代の初期か、若しくはそれ以前のことであったと考えられる。こうして一面焼野原になった大山村に再び植林が行われ、それがようやく成長した安永元年(一七七二)二月二十九日、江戸に有名な目黒行人坂の大火が起こった。この火災は江戸市中の大半を焼き尽くしたほどの大火であったので、その復興のため幕府は関東一円の諸侯に、建築資材としてその領地から木材を供出することを命じた。このとき大山村を領地としていた田安中納言家でもまた幕府の要請に応じ、大山村の山林のすべてを伐採して江戸に運び、その跡地に新田を開発したので、それ以来大山村を改め大山新田と呼ぶようになったといわれている。