板戸井村

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 承平、天慶(てんぎょう)(九三一―四六)のころ、平将門が東国に兵をおこしたとき、相馬地方に七つの井戸を掘って、万一の場合における飲水に備えたという伝説が残っている。現在の取手市米の井、野々井などはそのとき掘った井戸にちなんでつけられた地名であるといわれている。守谷町の板戸井もまたその一つであるということを、先年ある古老から聞かされたので、その古老の案内で井戸の跡を探訪した。井戸は現在の東板戸井で、その地点は滝下橋の手前約三〇〇メートルの左側、民家の間に挾まれた細い路地を入ったところの坂の下にある水田の一隅で、古老の話ではかつては清水が滾々(こん/\)と湧き出ていたというが、いまではその気配(けはい)はなく、ここが井戸の跡だといわれなければ気がつかないくらい荒れ果てていた。板戸井の地名は米の井や野々井のようにこの井戸にちなんでつけられたと伝えられるが、もとより信ずるに足る話ではない。
 さて、板戸井の地名については以上のような伝承もあるが、更にさかのぼっての時代、板戸井には遠い昔、既に古代社会が成立していた遺跡がいまなお歴然として残されている。それは滝山古墳群の存在である。その古墳群も現在は畑地にかわり、所在は全くわからなくなってしまったが、ただ言い伝えだけは残っていた。ところがその言い伝えを裏付けるように、昭和二十三、四年ごろ偶然の機会に古墳の一基が発見された。その古墳には地表から約一メートルの深さのところに、かなり大きな粘土棺が埋められていた。ところでそのときこれを調べると、すでに一度掘り起こされたものと見え、棺の中には遺骨はもとより副葬品らしい遺物は一つも残っていたかった。もしすでに掘り起こされたとすれば、それはいつごろのことか語り伝えもないのでわからない。恐らく江戸時代のことであろう。

滝山古墳群跡

 また、それだけではない。この古墳群の附近からは石器時代に使用された磨製石斧や、縄文時代、弥生時代などの土器の破片も多く鋤犁(じょり)の先にかかって掘り出されている。このような事実から見てもわかるように、板戸井村には古代すでに人類社会が成立し、そこに人びとが社会生活を営んでいたことが明らかになっている。
 現在、板戸井は鬼怒川を挾んで東西に分かれ、通常東板戸井、西板戸井と呼んでいるが、それは寛永年間(一六二四―四三)鬼怒川が新たに開削されてからのことで、行政管区としては昔からただ一つの板戸井村であった。それを証明するものとしては坂兵左衛門家文書、宝永三年(一七〇六)の『板戸井村差出帳』に記載してある「当村方角」というくだりに、
   東西へ 千五百拾間
   南北へ 七百五拾間
  隣郷
   南 大木村へ拾弐丁八間 但名主門前より
               大木村御制札場迄
   北 大山村へ拾壱丁四拾間  右同断
   東 立沢村へ拾九丁拾四間  右同断
   西 菅生村へ三拾七丁五拾間 右同断
 とある。これによってもわかるように鬼怒川を境にして東西の区別はされていない。

板戸井御宗門人別書上帳

 また、この村は前号『大山新田』の項でも述べたように、西板戸井は鬼怒川開削以前、大山村とは地続きであったが、鬼怒川が開削されてからはにわかに河川の沿岸村落となり、しかもその鬼怒川が東関東における河川交通上重要な地位を占めるにいたったので沿岸村民の生活上にも大きな変化を来たし、村民のうち、特に高持百姓である大地主層以外の農民は船乗稼業、つまり船頭となり、そのうち資力のある者は自ら船を持ち、無い者は船乗りとして雇われ、そのほとんどが水運業に携わって生活基盤を支えるようになった。しかし江戸時代は支配者の政策として、農村においてはたとえ船乗稼業が主たる生活手段であっても、それをもって専業とすることは許されないので、その規制から免れるため、家業として多少でも農業を営まなければならなかった。そこで多くの農家では農業は専ら老人や婦女に任せ、家長は船乗りというのが沿岸村落における農民生活の実態であった。
 戦後我が国では農業生産が飛躍的に成長したので、生産調整のため減反政策が行われるようにたってからは、農業が多く兼業化され、農家の家長はそのほとんどが他の産業に従事したので、農業には専ら老人や婦人が従事するようになり、一時農村では「爺(ぢい)ちゃん、婆(ばあ)ちゃん、嬶(かあ)ちゃん」のいわゆる三ちゃん農業という流行語を生んだ。ところが鬼怒川沿岸の農村ではすでに江戸時代から大正中期にいたるまで、鬼怒川水運が盛んであったころはこうした生活形態が続けられていたのである。