大木村

224 ~ 227 / 434ページ
 大木村は台地と水田が相対した村落である。前山、松山、高崎などの集落は台地にあり、水田はいずれもそのすそに広がりを見せている。更に鬼怒川を挾んでその右岸には大木新田の集落がある。この集落は寛永年間(一六二四―四三)鬼怒川が開削されてから新たに開発されたところで、その区域は北部の板戸井村滝下から西に延びる板戸井台地の縁辺を境界にして、鬼怒川が利根川に合流する地点までおおむね三角形をなした低地で、昔からしばしば洪水の被害を受けることがあった。それで人びとはこの地を流作場と称し、洪水のあるのを覚悟の上で農耕に従事し、領主もまたこのことを考慮し、平年でも年貢を減じていた。したがって大木新田の農民は「流作百姓は三年に一度収穫があれば暮しが立つ」といって、あえてこの土地を離れようとしなかったという。
 大木新田は前述のごとくしばしば水害を受けるのでその住居にも工夫を用い、家を建てる場合、昔はすべてその屋敷地内だけ盛り土をして、その上に建てたものである。これを蒿土式住居といって、常に水害の恐れある土地においては全国各地に見られるところである。また、大木新田の集落が成立したのは鬼怒川開削後のことではあるが、その時期は明らかでない。一説によれば寛永二年(一六二五)に開発されたといわれているが、そのころは鬼怒川開削工事がようやくその端に着いたばかりであったから、新田開発までには至らなかったのかもしれない。
 それはさておき、伝承によれば大木新田の開発に最初に着手したのは、鹿小路村の農民高梨氏であるという。続いて目吹村(現、千葉県野田市)の農民野口氏、更に保木間村(現、野田市)の農民新島氏であるといわれ、この三家は大木新田の草分け百姓として家格も高く、高梨氏は「上の家(かみのうち)」、野口氏は「中の家(なかのうち)」、新島氏は「下の家(しものうち)」と称し、村落の北部、中部、南部に住居を構え、いずれも村内では重きをなしていた。その後大木本田から、また、板戸井村から、更に遠くの村々から入植する者が増え、江戸時代末期の記録では戸数一七を数えている。
 さて、大木村という地名の由来であるが、古老から聞いた話では、村の中ほどにある曹洞宗の寺院、釈迦山大円寺の境内にそびえる椋(むく)の巨木にちなんで名付けられたという。その巨木は推定樹齢五、六百年であるから、その椋の木が巨木になるまでの地名は何といったかという疑問もおこるのでこの説には肯定し難いものがある。更に大木の地名については、『須賀家系図書』と称する一帖の写本がある。この系図書は大木村の旧家、須賀家に関する家系譜で、それによれば同家の祖先はまず大職冠藤原鎌足に始まり、平将門時代に大江弾正藤原重房という者が須賀姓を賜り、その子須賀冠者丸という者が大木太郎藤原重為と称し、ここにはじめて大木という名称が出てくるが、元来、この系図は近世期に作成されたもので、江戸期以降の記述は一応、信用するに足りるが、中世期以前の記述については作為したと思われる箇所が多く、その記述については真偽にわかに判定し難く、したがって良質な史料として用いることは危険である。
 とにかく、この系図によって大木という名称はあらわれたが、それも後世つくられた文献によるもので、その時代に大木姓の人物が存在していたからといって、それを直ちに地に結びつけることは早計である。

大木の地名の由来と伝えられる大円寺の大椋(むく)の樹


須賀家系図書