立沢村

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 弘化二年(一八四五)三月、清宮秀堅の著した『下総国旧事考』という本に「竜沢寺、立沢村ニ在リ、僧宗悔ノ開ク所ナリ、正応二年建ツ」(原漢文)とある。正応二年(一二八九)といえば、ちょうど鎌倉時代の中期であり、そのころすでにこの寺が建立されていたというのであるから、立沢村も相当古い時代に成立していたものと考えられる。しかし、当時村の状況はどのようなものであったか、いまそれを知る史料がないので知ることができない。
 それはさておき、立沢村には御所台という小字がある。いまの新守谷駅の西側に当たる一帯の地域である。その御所台附近も今は常総ニュータウン北守谷団地として開発され、その付近は御所ケ丘という新しい住居表示に変わって市街地を形成している。ところでこの御所ケ丘という地名であるが、それには次のような歴史的由緒がある。
 下総国古河(現・茨城県古河市)に古河公方足利義氏という人物がいた。古河公方(くぼう)というのははじめ足利尊氏が京都に室町幕府を開いたとき、関東地方の武士を統制するため、幕府と同じような組織をもった行政機関を鎌倉に設けてこれを鎌倉公方と称し、二代将軍義詮の弟基氏をその長官に任じた。ところが時代を経るにしたがって鎌倉公方の勢力が強大になり、遂に幕府と対立するに至った。そのころの公方は初代基氏から四代目の持氏であったが、持氏は永享十年(一四三八)八月、遂に幕府に対して反旗を翻した。しかしこの戦いはかえって持氏が不利に陥り、いったん鎌倉の永安寺に退いて形勢を観望している間に、翌年二月将軍義教は関東管領上杉憲実に命じて持氏を攻め、遂にこれを自殺に追い込んだ。世にこれを永享の乱という。
 持氏が自殺した後はその子成氏が父の跡を継いで鎌倉公方となり、憲実の子憲忠が執事となって政務を補佐した。しかし、成氏は憲忠の父がわが父を殺したことを遺恨に思い、両者の間は常に不和であった。したがって関東の武士も自ら成氏方、憲忠方と二派に分かれて相反目し、形勢もまた穏やかでなかった。そのうち享徳三年(一四五四)十二月、成氏は結城成朝をして憲忠を攻めさせ、遂にこれを殺してしまった。そこで今度は幕府が成氏を憲忠を殺したことを理由に、康正元年(一四五五)六月、今川範忠に命じて成氏を攻めた。これによって成氏は鎌倉を捨て下総の古河に退いたが、なお公方としての権勢を張っていたので、それより後は成氏を古河公方と称するようになった。
 古河に移った成氏の後は政氏、高基、晴氏、義氏と相次いで公方の地位にあったが、代を経るに従って公方としての実力を失い、義氏の代には関東の新興勢力たる小田原北條氏の庇護の下に、わずかに命脈を保っている状態になった。そのころはいわゆる戦国時代といわれ、群雄四方に割拠(かっきょ)しておのおの勢力を競っていた時代であるから、関東地方の形勢もまた穏やかでなかった。ところがそのころ関東では小田原の北條氏が最も勢力が強く、これに対してその勢力に対抗したのが越後の上杉氏である。その上杉氏はしばしば兵を進めて北関東の諸城を攻略し、北條氏とことを構えることがあった。やがて永禄九年(一五六六)から翌十年にかけ、上杉氏はまたもや関東へ進出して古河公方足利義氏の拠っている古河城を攻略しようとした。そのとき古河公方を庇護している北條氏は一時的戦略としてその鋭鋒を避けるため、守谷城主相馬治胤と謀り、暫時公方義氏を守谷へ移すことにした。これに関しては次のような『足利義氏書状写』という史料がある。
  森屋の地御座所として進上致すべきの段、相馬左近太夫申し上げ候間、其の儀に任せ請取られ候。右仕置等仰せ附けられるるの間、彼の地へ御座を移せらるべく候。
                                           (原、和様漢文)
 とあり、古河公方動座の事情が誌されている。こうして公方義氏は守谷城主相馬治胤の所に移ったものの、相馬氏としてはいやしくも足利将軍家の一門で、公方の地位にある高貴の人物を迎えるのであるから、相当な心遣いをしなければならず、そこで新しく御殿を建て、当時の慣例に従ってその御殿を御所と呼び、警固の武士も多く集められたであろう。
 現在、御所ケ丘と呼ばれているところは、立沢村小字の御所台に基づいて付けられた地名であるが、当時の御所はどのあたりにあったのか今は明らかでないが、御所台の名のみは伝承として残されている。