高野村

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 高野村はその地勢東より西に向かって起伏が多く、村の中心地たる二重堀、向坪、台川端、根切等の各集落は丘陵台地にして、その周囲はすべて谷津田によって囲まれ、あたかも一島嶼(とうしょ)をなすの観を呈している。更に本宿と称する集落は島嶼状集落より東に位置し、旧守谷町に接して平地に連なっているので、村内自らその地理的環境を異にしている村落である。また、地名の高野については次のような伝承がある。
 承平年間(九三一―三七)、平将門関東の地を平らげ平新皇と称して京都の政権に対して東国政権を樹て、守谷に偽都を造営して百僚百官を置き、諸事京都に模して驕(きょう)慢をほしいままにした。そのとき将門は更に畿内における京都ゆかりの地を選び、これを偽都の周辺に移して守谷を京都に擬(なぞ)らえようとした。高野の地名は将門が紀州高野山金剛峯寺に擬らえてここに海禅寺を創建し、それをもって地名にしたと伝えられている。

高野海禅寺
(平将門及び七人影武者の供養塔)

 先に述べたように本宿の集落は旧守谷町に接し、しかも本宿という地名をもっているところからみて、近世以前はむしろこの集落が高野村の中心地であったとも考えられる。いまそれを立証するものとして八坂神社鎮座説がある。現在、旧守谷町仲町に鎮座する八坂神社はもと本宿にあったものを、土岐山城守定政が領主として入部してからのち、慶長三年(一五九八)に現在のところへ遷座したものであるという。これに関しては本宿の元八坂神社跡と称するところがあり、そこから先年、中世期に造立されたと見られるきわめて素朴な五輪塔が、また昭和五十八年十月には推定高さ一メートルもあると思われる板碑の破片が発掘されている。五輪塔や板碑は元来塔婆の一形式で、したがって仏寺に造立されるものであるが、それが八坂神社跡地と伝えられるところから発掘されたことについては、果たしてそこに神社があったか否やにはいささか疑問もある。しかし、それはしばらくおき、中世期ごろ本宿が相当開発され、社寺はもとより人家なども多くあった形跡からみて、「八坂神社鎮座説」も全く根拠のないわけではない。

高野村本宿で発掘された五輪塔及び板碑残片