元来、守谷町附近には昔から平将門にまつわる伝説が多く残っている。この鈴塚村の地名もまたその一つである。
平将門がかつて京都にいたころ藤原純友と親交を結び、将来互いに志を得たれば東面相呼応して兵乱を起こすことを約束した。やがて両人は志を得たので純友は四国伊予に、将門は東国下総におのおの兵を挙げることになった。そのとき挙兵に先立ち純友ははるばる東国に下り、将門とともに大鈴を埋めて塚を築き、互いに戦勝祈願を行ったという。それ以来この地を鈴塚と呼ぶようになったと伝えられている。
それとは別に鈴塚村にはまた現在第二松ケ丘と呼ばれている住宅地附近に、五十(いそ)塚古墳群という古代遣跡があった。それが鈴塚という地名の由来になったのではないかという説もある。古墳は一見塚状の形をなしている。五十(いそ)塚の五十(いそ)とは多くある数の形容詞で、塚の数が多くあることを意味している。その多くある塚があたかも鈴なりのように連なっているので鈴塚の地名が生まれたのではないかとも考えられ、実際、五十塚古墳群といわれているところには多くの塚があった。その塚のある付近は住宅・都市整備公団が開発を行う「南守谷地区土地区画整理事業」の範囲に含まれたので、埋蔵文化財発掘調査を行うことになり、昭和五十四年四月から七月にかけて茨城県教育財団がこれを実施した。その結果、この古墳群からは円墳七墓が確認され、それを発掘調査したところ人骨、槨(ひつぎ)などの出土はなく、わずかに土師(はじ)式土器の破片が少数出土したのみであった。しかし、この古墳群にはそのとき確認された七墓のほかに更に幾つかの古墳が存在していた。それは昭和四十七年十二月、五十塚古墳の調査を行ったとき、古墳が存在していると見られる地点に、すでに人家が建てられてそれが湮滅しているのを確認した。それは五十四年の発掘調査の対象にならなかったところである。