乙子村

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 乙子村は利根川左岸の丘陵地で旧守谷町、小山村、現取手市戸頭に連なる平坦地が大部分を占め、わずかに利根川流域に面して低地があり、それはおおむね水田地帯となっている。この乙子村もその地名についてはまた平将門の伝説がまつわっている。それは承平年間、将門が守谷に城を築いたとき、万一の場合に備え、本城からこの地まで抜け穴を掘り、そこから落ち延びることにしたといわれ、その抜け穴の出口を落口といった。その落口が乙口に変わり更にそれが乙子に転訛したのだと伝えられている。この説はこじつけであり、どこまでが本当なのか全く分からないのが実情である。
 また、乙子村には石神神社という性器崇拝の信仰による神社が鎮座している。御神体は一丈二尺の石棒であるというが、塚を築きその中に埋められているのでその実体は明らかでない。創建は享和三年(一八〇三)八月といわれているから、それほど古い神社でもないが、どういう由緒でこの神社が祀(まつ)られているか分からない。しかし、とにかく村の鎮守として村民の崇敬はもとより、花柳界やその他水商売の人びとの間に厚い信仰があり、かつては毎月二十七日の縁日には遠く東京方面からの参拝者もあって、大いに殷賑(いんしん)を極めたという。
 更に乙子村には昔から駒形神社が祀られ村民の崇敬を受け、村の一部の区域の鎮守となっていた。ところがその後、一村に二社の鎮守を奉斎するのは何かにつけて不都合があるというので、明治四十三年三月、両神社の氏子総代が相談のうえ、駒形神社を石神神社に合祀して乙子村全村の鎮守社とすることにした。それを記念するための石碑が現在神社の境内に建っている。