いま国道二九四号線とみずき野方面に通ずる道路(郷州戸頭線)と交差する地点を昔は通称追分といっていた。それは現在二九四号線を斜めに横切っている旧道(古称銚子街道、現称守谷流山線)から戸頭渡船場に通ずる道路の分岐点にあっていたからである。その分岐点付近から現守谷町と取手市の境界付近まで松並木が続いていた。この松並木はいつごろ植えられたものか明らかではないが、道路は水戸街道と日光街道をつなぐ重要な脇往還であったから、江戸時代の初期幕府の道路政策として植えられたものであろう。ところがその並木も年代を経るに従って大木となり、枝葉が繁茂して並木に沿っている小山村の百姓の畑が日陰になって、作物の成育に支障を来たすというので、村民はその並木の払下げ方を願い出た記録が残っている。
往時における追分附近の概念図
恐れながら書付をもって申上げ奉り候。
総州相馬郡小山村左の者ども申上げ奉り候。私ども村方地内御並木の儀、今般御検見御廻村の上御見分遊ばされ候通り、大木に相成り、殊の外枝葉茂り、近所にこれあり候百姓持林並びに近村守谷町境にこれあり候畑方日影に相成り、往々百姓難儀に相成り候間、別紙書付差上げ奉り候通り、代金当丑の暮(丑年々末の意)より来る寅の暮両度に上納仕るべく候間、御伐払仰せつけられ候様願上げ奉り候。願いの通り仰せつけ下し置かれ候はば、有がたき仕合せに存じ奉り候。以上。 (小山、滝本孝雄家文書)
この文書には宛先(領主又は道中奉行など)と年月日が記載されていないのでいつごろのものか分からない。しかし、小山村民はこうして並木の払い下げを願い出たが、果たしてそれが願いどおりに払い下げられたか否やについて記録がないので明らかでない。しかし、その並木も昭和三十八年二月、守谷町は老朽校舎(守谷、大野、大井沢、高野の各小学校)の修繕材料という名目で県知事の認可をうけ、競争入札で一般に払い下げたため、古道のたたずまいを残す松並木は伐採され、いまは跡形もなくなってしまった。払い下げをしたときの松の樹齢はいずれも相当年数を経た古木であったから、江戸時代に小山村民が払い下げを願い出たときは、その願いが聞き届けられなかったのであろう。