辰新田はその大部分が畑作地帯をもって占められ、水田はわずかに小山村と相対する低地にあるのみで、江戸時代はその村高(村の生産量)三一石余、戸数また一〇戸を超えない小村であった。
この村には羽黒神社というのが祀られて、現在は小山、辰新田両村の鎮守社になっているが、この神社には次のような伝承がある。
時代はいつごろか分からないが、羽黒神社はもと小山村の名主某の屋敷神であった。ところがその名主が亡くなり、その跡式は未亡人が継いでいたが、この未亡人もまだ若かったものと見え、いつしか隣村辰新田の名主某と情を通ずるようになった。そのころ辰新田は村ができて間もないときなので、村にはまだ鎮守社がなかった。そこで辰新田の名主は小山村の名主宅に祀られている羽黒神社を自分の村の鎮守社にしようとして、かねて情を通じている小山村名主の未亡人を口説き落とし、羽黒神社を辰新田へ移して鎮守社にしたというのである。この話は事実かどうかは分からないが、とにかく語り伝えとして残っている。
さて、右の語り伝えと関係があるかどうかは明らかではないが、いま辰新田には次のような記録がある。その記録によると羽黒神社は事実、もと小山村の鎮守社であったことが判明した。まずその記録を引用してみよう。
一、羽黒権現先規より小山村氏神に御座候、辰新田村起立以来弐ケ村の氏神に誓約仕り候事。
一、宮建立入用等の儀、小山村三分の二、辰新田村三分の一の積りに出し申すべく候。弐ケ村相談の上建立仕るべく候事。
一、権現の社地支配の儀、小山村より仕るべく候。竹木等の儀小山村にて所持仕るべく候。但し辰新田村の分御除地下畑壱畝五歩の所は社地の内に御座候。此の分の竹木は辰新田村にて所持仕るべく候事。
右の通りに付き相守り相談の上神事建立相勤め申すべく、双方証文取替し申し候ところ仍って件のごとし。
元禄六年酉ノ極月九日
小山村
名主 伝兵衛
組頭 吉兵衛
惣村中
辰新田村
名主 彦左衛門殿
組頭 佐五衛門殿
惣村中
(辰新田、月岡家文書)
とある。いまこの記録の内容を平易に訳すれば次のとおりになる。
一、羽黒権現は従前から小山村の氏神であった。しかるに辰新田村が後に新しく起立したので、それからは二か村の氏神とすることを互いに誓約した。
二、社殿を建立する費用等は小山村が三分の二、辰新田村が三分の一、それぞれ出し合い二か村相談の上で建立する事。
三、権現社地の管理は小山村が行い、社地に生じた竹木は小山村の所有とする事。但し、辰新田村は御除地(除地とは免租地をいう)下にある畑一畝五歩の場所は社地ではあるが、そこに生じた竹木は辰新田村の所有とする事。
四、右の通り取り決めたので互いにそれを守り、すべて相談の上神事を勤めるよう双方証文を取り交わしたこと以上の通りである。
ところがこの証文を取り交わしてから三十九年後の元文二年、羽黒神社の社地に対する管理権について、小山村と辰新田村との間に紛争が生じ、それを辰新田村が領主に訴えた事件が発生した。しかし、その結果は領主の裁定により辰新田村もこれを諒承し「段々仰せ聞けの趣き承知仕り候。[ ][ ][ ]一々御尤に存じ奉り、私ども心得違いにて不調法なる儀申し上げ候云々」と述べ、更に「元禄六酉年取替し候証文通りに相心得、社地の内一畝五歩の所、辰新田村にて所持仕り、竹木等も支配仕るべき旨仰せ聞かされ候段畏り奉り候」といい、最後に「自今違乱これなき様諸事相談の上、むつまじく仕るべく候。後日のため一札差上げ候事」と結び、紛争に対して辰新田村が譲歩した形で円満解決したのである。