郷州原

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 現在、みずき野といわれている住宅地帯はもと郷州原(ごうしゅうばら)という樹林地帯であった。
 郷州原は古来から平将門の伝承にかかわりをもったところとして知られ、文化一四年(一八一七)に成立した国学者高田与清の『相馬日記』には次のような記事が載っている。
  がうしうが原といへるは、田中の離島にて縦横に上道一里余の広野なり。昔、淡海の廻れる時は、えもいはぬけしきの島なりけむと思ひやるる。今この野中を行く道をがうしう海道とよべり。抑、がうしうといふ名、何とも心得がたきを、よくおもへば将門記、今昔物語などに辛島と見えしを、がうしうとは訛れるにて、辛島の広江といへるも、この周の田となりし所を指せるなり。
 と記し、江戸時代においてもただ広漠たる広野であったことが想像される。しかし、その広野の中にわずかに一筋の道路が開けているのを、相馬日記ではそれを「がうしう海道」と表現している。この郷州海道という山道は、かつて守谷町愛宕より取手市上高井を経て藤代町山王に通ずる道路のことであろう。この道路も現在はみずき野地区が整備されたため辰新田地区で途絶し、その先は奥山新田より新たにみずき野地区に開設された道路に吸収されて上高井地区に通じている。
 更にこの一筋の道路は中世期、鎌倉時代以降の豪族で相馬郡一円を支配していた相馬氏が、鎌倉時代の末期に一族が分裂し、支流の相馬重胤は一族中の同志及びその郎党を率いて祖先師常の所領たる奥州中村(現、福島県相馬市)に移り奥州相馬氏を創立した。これに対して下総に残った相馬氏は下総相馬氏として存続したが、戦国時代の末期には往年の勢を失い、関東の新興勢力たる小田原北條氏の幕下に組み入れられ、わずかにその勢力を維持するようになった。しかし、なお下総の名族としての地位は失わず、本城たる守谷城を中心に筒戸(現、谷和原村)、高井(現、取手市)等に支城を設け、一族を配置して支配の強化につとめた。「相馬日記」にある「がうしう海道」は、そのころ守谷本城から高井支城へ通じる連絡路であったとも考えられる。実際、郷州原が開発されるまで、守谷附近の人びとが上高井、下高井を経て山王村(現、藤代町)方面へ行くのには、多くこの道をたどったものである。
 また、郷州原は古代には多くの集落が存在し、原始社会を形成していたことが、昭和五十三年五月から翌年四月にかけて行われた、遺跡発掘調査の結果明らかになった。ところがいつごろからこの地が無人の境に化したのか、その経過は分からない。殊に近世、幕藩体制が確立して地方における領主支配が完全に行われるようになっても、郷州原を領有する領主はなく、ただ広漠たる山林として付近住民がほしいままに薪材などを伐採していた。しかし、それでもなお利用収益する村々の間で入会権の設定もされなかったようである。それがにわかに所有権が各人の間に設定されたのは、明治六年(一八七三)に施行された地租改正以後のことであろう。