奥山新田

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 奥山は守谷町の東北に位置し、愛宕地区及び辰新田に続いて広がる台地にある村落で、東は一面の谷津田、北もまた同地、市之代(取手市)の台地に臨み、その間の低地は水田によって占められている。奥山の地名は周辺の村落から見て舌状形に低地に延び、特に奥地にあるところから命名されたのであろう。また、この奥山は本田と新田に分かれ、昔はそれぞれ独立した村落であったであろう。しかし、江戸時代後期の記録には新田の名は出てくるが本田の名は一つも出ていない。それでこの間の事情を知ろうとして、本田、新田に関する古い記録がないものかと思い、両地区の旧家を訪れて探したがそれを解明する史料はもとより語り伝えさえ得られなかった。そこで更に視点を変え両地区に存在する金石資料を調査することにした。金石資料とは神社、仏閣の境内又は墓地、路傍などに建てられている石造物又は金属製品に刻まれている歴史的資料のことである。
 金石資料調査の第一歩としてまず奥山本田にある薬師堂の裏の共同墓地を見た。そこには寛文四年(一六六四)及び延宝七年(一六七九)に造立された供養塔があった。また、薬師堂境内にある元禄七年(一六九四)に造立した供養塔には「本田奥山村」と刻んであった。次いで奥山新田の共同墓地その他のところを調査したところ墓地内にある奈幡家の墓石に元禄五年(一六九二)の紀年が刻まれていた。この墓地内ではそれが一番古いものであった。更に鈴木宗右衛門(当主栄氏)家の屋敷神として祀られている小祠には『享保三年、奥山新田村』と刻まれてあった。こうして両地区の金石資料を調査した結果では、両地区の起立はほとんど同時期であったと考えられる。
 そもそも新田村とは新しく開発した村のことで、新田村開発のパターンとしては、まず本田の農民が未開懇地を求め、出百姓として鍬入れを行い、ある程度耕作利潤を得られるようになった時期に達するや、出作していた者を分家として定住させ、それが一村を形成するに至ったとき、その新開の村を本田村に対して新田村と称した。そしてその多くは本田村の村名をとって○○新田といったのである。ところが奥山の本田、新田の場合はその形跡がまったくなく、それがどうして本田、新田に分かれ別個の村落として「村づき合い」をしていたのか、その辺のところがまことに不可解である。そこでその不可解を解明するために次のような見解をとった。
 それは奥山本田、新田が起立した当時は領主もこれをおのおの一村として支配していたが、延享四年(一七四七)この地が新領主田安中納言の領知になると、田安家では村の地理的状況、又はその戸数、村高などを勘案し、これを一村に統合して支配することになったのではないかと思う。そこで更にその当時の戸数、村高などを調べようとしたが、何分にも文献史料が皆無のためそれを明らかにすることはできなかった。しかし、古老の語るところによれば、昭和初期における奥山地区の戸数は本田が一三戸、新田が二一、二戸とのことであった。すると両地区の戸数合わせて三四、五戸となるが、農村における社会的変動の少なかった時代であるから、この数字は明治、大正をさかのぼっての江戸時代とそれほど差はなかったと考えられる。また、茨城県史料によれば奥山新田の村高は五八石四斗三升三合とある。この村高は両地区の戸数三四、五戸に見合うものであるから、これによっても当時の支配領主は本田、新田を統合支配していたことがうかがわれる。ただし、それがどうして奥山新田という単一村名を用いることになったのか、それは多分本田より新田の方が戸数も多く、また水田による生産性が高かったからではないかと思う。
 ここに参考のため幕末期における現守谷町区域内旧各村の支配領主及びその所領高を掲げることにしよう。
旧町村支配領主所領高
石 斗升合
守谷町関宿藩領一八〇一、五一九
 〃八幡社領五、〇〇〇
 〃長竜寺領一〇、〇〇〇
 〃永泉寺領三、〇〇〇
 〃西林寺領二〇、〇〇〇
立沢村田安領三五四、六七三
立沢村観音堂領五、四〇〇
板戸井村幕府領一二、八八九
 〃田安領七一二、八三五
大木村 〃四八四、六二〇
大木新田幕府領三一、六四九
大山村田安領一〇四、四五〇
野木崎村平岡石見守四〇五、八〇四
野木崎村本多隼之助一〇九、九九一
 〃石川近江守三六三、六一一
 〃薬師堂領四、五〇〇
 〃正安寺領四、二〇〇
 〃薬師寺筑前守四一、四八一
大柏村幕府領六三、四二九
 〃田安領五五七、三九〇
鈴塚村 〃九五、四三七
高野村 〃六九三、五二三
高野村幕府領六三、三六一
 〃海禅寺領一一、五〇八
 〃高福寺領一一、四〇二
乙子村田安領二二一、〇七四
赤法花村 〃四二、二四〇
同地村 〃七九、六六二
奥山新田 〃五八、四三三
辰新田関宿藩領三一、五六五
小山村田安領四九、四四〇