これは赤法花村のある古老から聞いた話であるが、昔、赤法花村と守谷町との間に古城沼をめぐって大きな事件が起こったことがあったという。この話はいつごろのことか分からないが、おそらく江戸時代末期のことだと思う。
現在、古城沼は去る昭和四十一年から四十五年にかけ、土地改良事業法に基づいて農業構造改善事業が行われたため、豊穣たる水田に変わっているが、江戸時代、この沼は守谷町、赤法花村、同地村三か町村の入会(いりあい)沼として、前記三か町村が共同で利用していたのである。したがって沼の水を利用する水利、沼に生息する魚鳥を採る狩猟や漁撈などにも特に水利権や狩猟権などの収益権を設定せず、いずれも三か町村談合の上で利用していた。しかし、そうしたなかでも赤法花、同地の両村にはそれぞれ極めてわずかではあるが昔から村の権利として占有していた場所があった。ここで序(つい)でに入会について少し述べることにしよう。入会とは一定の地域の住民が共同して利用することで、その対象となるものは山林、原野、水面などであった。入会はすでに律令制の行われていた古代でも「山川藪沢ノ利ハ公私コレヲ共ニス」と規定され、この原則は中世以後、江戸時代を経て現代にまで引き継がれ、入会地はすべて免租地として認められていた。
さて、話はこれからである。その入会沼にある日突然守谷町の名主斎藤徳左衛門が数名の町民を連れ、赤法花村が昔から占有し、それを権利として保持していた六反歩ばかりの土地へ縄を入れて測量を始めた。江戸時代は測量することを縄入れといった。これを見ていた赤法花村の村民は、自分の村が持っている土地へ勝手に縄入れをするのは不法であると騒ぎだし、大勢の村民が現場へ駆け付け、有無を言わさず名主徳左衛門を捕らえ、赤法花村の名主宅へ連れ込んで軟禁した。徳左衛門に連れられてきた守谷町の数名の人びとはこの様を見てほうほうの体で逃げ帰り、急を町中に触れたので「すわこそ大変、名主さまを取り返せ」と、早鐘を打ち鳴らして町民を集め、集まった町民は大挙して赤法花村へ押し掛けた。一方、赤法花村でもあらかじめこのことを予期し、男たちは一か所に集まり、女たちは炊き出しの準備などをして用意すること怠りなかった。やがて間もなく守谷勢が多数押し掛けて来て、まず名主宅の前に建ててあった高札を引き倒し、気勢を揚げて赤法花勢に挑みかかった。当時、守谷町は戸数約二五〇、赤法花村はわずかに一五、その大きな町と小さな村との対決では衆寡もとより敵せずで、赤法花勢はたちまち敗退してしまった。しかし、こうしたなかでも互いに話合いは行われ、結局は守谷町の名主が赤法花村の占有地であることを知らないで縄入れをしたこと、また、赤法花村の村民はそれを一図に守谷町の名主が、自分たちの土地を取り上げるものと誤解し、理非を正さず名主を捕らえたことが分かり、双方互いに理解し合って事件は円満に解決したというのである。
この事件は赤法花村の占有地へ守谷町の名主が縄入れをしたことに端を発して起こったように見られるが、その背景をなすものは守谷町と赤法花村の領主がおのおの違うところから、双方常に相反目していたのが原因ではないかと思う。当時、守谷町の領主は下総関宿(現、千葉県関宿町)四万八〇〇〇石の大名久世大和守であり、一方、赤法花村の領主は田安中納言家であった。田安家は前項「註」で詳しく述べたように八代将軍吉宗の次子宗武を始祖とする名家で、紀州、尾張、水戸の御三家に次ぎ、同じ将軍家の一門である清水、一橋家とともに御三卿とあがめられている家柄であったから、その領民たちは領主の権威を笠に着て、他の大名領や旗本領の領民を軽蔑する嫌いがあった。こうした社会環境のうちにあった赤法花村の村民は、たまたま関宿藩領の名主が誤って縄入れを行ったとしても強くこれに反発を感じ、ついに前記のような事態を生むにいたったのだろう。
また、赤法花村には江戸時代の一里塚の遺跡が残っている。
現在、牛久守谷線と称する一条の道路が赤法花地区の北端をかすめて走っているが、この道路は旧称笠間街道といって、江戸から常陸国笠間(現、茨城県笠間市)に通じる脇往還として交通上かなり重要な位置を占めていた道路であった。そのころの笠間街道は小貝川を渡るのに現在の常総橋の十数メートル下流にあった渡船を利用した。この笠間街道は守谷方面から向かう場合、まず現在の町役場前の道路から上町で右折し、新町を経て谷津田を越え、北園地区に至る途上、道路は右と左に分かれるいわゆる分岐点がある。その分岐点を左にすれば旧銚子街道で水海道市方面に至り、右はすなわち笠間街道である。いまはその笠間街道も途中で現在の牛久守谷線に合流しているが、旧笠間街道は更に新道を横切り、今は廃道になっているが、もとはそのまま新道に沿って小貝川畔に達していた。
赤法花村の一里塚は現在廃道になっている道路にあった。一里塚遺跡のあるあたりをてしこ代(台の意か)といい、一里塚に関する史料としては文政八年(一八二五)一月、赤法花村の名主清蔵の書いた『古書物写』という記録のなかに収められている。
一、当村江戸より笠間へ大道通り御座候。当村の内壱里塚壱か所てしこ代と申す所に亥の方塚弐つ松植え御座候。船渡し御座候。江戸の通りは当村より船渡し仕り候。笠間よりの通りは川向青木村より渡し申し候。
(赤法花、染谷良雄文書)
とある。この記事によれば赤法花村のてしこ代というところに一里塚があり、その塚に松の木が植えられていたことが明らかになっている。そこでそのてしこ代にある一里塚遺跡はどの辺かと思い、土地の古老に教えてもらったら、そこはちょうど常総橋の手前、約五〇メートルの所の北側で旧道に面し、いまそれを庚申塚といい、塚の上には庚申塔のほか数体の石造物がある。
赤法花一里塚の旧跡(前の道路は旧笠間街道)