同地村は北は赤法花村に連なり、南は市之代村に接し、その地形は赤法花村とまったく同じで、東は小貝川に沿い、西は古城沼(現在は水田)に臨んでいる台地集落である。
古墳時代、この集落には相当有力な豪族がいて、その豪族が周辺を支配したものと思われ、豪族を葬った古墳のいくつかが存在している。
大正八、九年のころ、当時、守谷町の吉田権平が所有していた山林を、地区の住民が山浚(さら)いのため木の根株を掘っていたとき、偶然一個の石棺を掘りあてた。石棺の中を改めたら一体の人骨とさびた鉄劔一口(ふり)が出てきたので、さっそく山林の所有者に知らせたところ、所有者はその人骨と鉄劔をまとめて守谷町の西林寺墓地に改葬したというが、現在はその人骨や鉄劔はどうなっているか分らない。この山林はこうした経緯があったので、後年、古墳群の所在地として県の指定を受け、現状のまま最近まで保存されていた。ところが昭和五十七年、古墳群所在地に指定されている山林を開発して、会田記念病院を建設することになった。しかもその建設予定地内に古墳の一基が含まれているため、文化財保護法の規定により発掘調査をしてその記録を遺すことになった。そこで同年十二月下旬、守谷町教育委員会は古墳発掘調査会をつくり、専門の考古学者に依頼して調査を実施したが、わずかに古墳時代の土器片若干が出土しただけで、当初期待していた遺物などはまったく見られなかった。更に大正時代発掘したもう一基の古墳は、病院の隣地に今なお現状のまま保存されている。
同地古墳
同地村には赤法花村と同じく古城沼の一部に赤法花村の数倍にわたる村の占有地があり、それとともに沼は守谷、赤法花、同地三か町村の入会沼であることは既に述べたとおりである。ところがその入会沼に関し、同地村と守谷町との間に沼に生育する蓮及び藻(も)草の採取権をめぐり紛糾が生じた。そこでその問題を解決するため双方談合の上、議定書を取り交わしたという史料が残っている。
取り替し申す議定の事
一、今般古城沼の儀、両村示談の上地分け境界相立て候ところ、蓮生藻草等の儀は両村の便利勝手合に任せ、双方談判左の通り取極め候。
一、沼地両村境界内外にかかわらず、一円蓮生の分は守谷町にて私有致すべき事。
一、沼地両村境界内外にかかわらず、一円藻草刈取の儀は同地村にし私有致すべき事。
右の通り定約致し候上は聊か相背くまじく候。これに依って後日混乱これなきため、議定書取替し置き申し候也。
明治六年六月三日
守谷町
副戸長 田中茂平 印
立会人 斎藤藤平 印
同地村
副戸長 飯島革 印
立会人 中村新右衛門 印
貝塚村
立会人 副戸長 霜多寿一 印
市之代村
立会人 副戸長 長塚源造 印
奥山新田
立会人 副戸長 原田重左衛門 印
(守谷町、田中勲家文書)
この議定書を見れば問題はどう解決したか一目りょう然であるが、ここに注意すべきは同地村、守谷町の当事者の外に、沼の縁辺にある貝塚、市之代、奥山新田など三か村の副戸長が、おのおの立会人としてこの議定を確認していることである。それは江戸時代、領主を異にする村落同志が議定などの約束を結ぶ場合、その約束に後日破綻(はたん)の生じることを予想し、問題発生地に関係のある他村からの立会を求め、その確認を得るのが一般の慣例であった。この議定は明治六年(一八七三)六月に結ばれたもので、維新後すでに六年を経過していたが、慣例はなお消えずそのまま伝えられたものと思う。ちなみに同地村は旧田安領、市之代、貝塚の二村は旧関宿藩領、奥山新田は旧田安領であった。