利根川の東遷工事と鬼怒川の開削工事は徳川氏が関東領国を支配するためには軍事上、経済上重要な意義を持つものであり、しかもこの大事業を能く遂行したものは、伊奈忠次とその長子忠政及びその弟忠治ら、伊奈一族によるものであることを知らなければならず、従って一応その経歴を述べる必要がある。
伊奈氏はもと三河国(現、愛知県)の地侍でその祖先は明らかでない。だが『寛政重修諸家譜』という江戸時代における大名や旗本家の系図によれば次のようになっている。
近世伊奈氏の始祖ともいうべき忠次は天文十九年(一五五〇)忠家の嫡子として生まれ、幼名を熊蔵と称した。父の忠家、祖父の忠基は早くより松平(徳川氏の前姓)氏に仕え、忠次の生まれたころは三河国小嶋の城主であったという。ところがその後父の忠家は三河に起こった一向一揆に加わり、家康に背いたため一時浪人となった。しかるに後、旧友小栗大六の仲介によって帰参がかない、その子家次は抜てきされて家康の近習役にすすんだ。また、天正十八年(一五九〇)二月、豊臣秀吉の小田原征伐に当たり、軍旅の進退、兵糧の調達、租税の事務等を掌らしめたところ、その臨機応変の処置に誤りなきを秀吉、家康に認められ、秀吉をして「我、ひとしく三遠(三河、遠江)に名士多しと聞く、いま、忠次においてこれを見る」と言わしめたほどであった。以来常に家康の左右に侍し、のち備前守に任ぜられ、徳川氏の能吏としてその内政を助けた。それのみならず忠次はまた土木技術に関しても優れた技量を持っていたので、領国経営にもっとも重要な治水工事、新田開発、検地などの事業にも携わり、いずれも忠次がその中心となって作業を推進したのである。従って忠次はすでに述べたように武弁一図の武士ではなく、経世の時務に通じた武士であったというべき人物である。