徳川氏の領国経営

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 天正十八年(一五九〇)八月一日、徳川家康は新たに領国として与えられた江戸へ入府した。しかし入府すると旬日を出ずに、江戸は大洪水に見舞われ、その水は神田山(現、駿河台)の裾を浸すまで及んだという。家康は江戸に居を構えるに当たり、いかにしてこの地を開発すべきかを重要課題としていたときだけに、この大洪水に遭遇したことは、家康にとっては領国経営の上に大きな試練となった。そのため家康はつぶさに洪水の状況を視察し、居城を江戸に置きこれを治めるにはまず水を治めるに如かずと考え、同時に水は恐るべきものではあるが、一面また利するべきものであるとの認識を新たにした。特に関東地方は開発もいまだ充分行われず、しかも大小の河川は縦横に流路をつくって広野を潤している。もしその河川の水を巧みに利用し、墾田を計り、運輸の使を整えれば、領国内における糧食の自給はもとより、将来経済力を培養するのに少なからず利点のあることを思い、ここに関東入国以来、数年にして、早くも河川改修の大工事を伊奈忠次に命じた。
 忠次が家康の命を受けて、始めて河川改修の大工事に着手したのは文禄三年(一五九四)のことであるという。文禄三年といえばその前々年には秀吉は兵を朝鮮に派し、海外征服の夢を追っていた時期である。しかるに、一方、関東においては家康は堅実に領国経営のため百年の計を立てて治水事業を興し、殖産を計り、民力の培養に努めていた。この両者の施策はまことに対照的なもので、われら歴史を学ぶ者としてはうたた興味津津たるものがある。