忠次はこの工事を命じられるや、自らその流域を踏査して地形の得失を測り、河道の付替えを行うのにもっとも適当なところを求めた。そのころ、現在の茨城県猿島郡、北相馬郡、稲敷郡及び千葉県東葛飾郡、印旛郡地方は低湿沮洳(そじょ)の地が多く、その間にいくたの湖沼が存在し、その湖沼もまた湖沼から湖沼へと連鎖的につながり、自然に一脈の水路をなしていた。それがためこれを「流れ江」と呼び、更に藺沼(ゐぬま)、広河(ひろかわ)、常陸川などと称していた。忠次はこの地方が以上のような地形であることに着目し、利根川河道の付替えはまずこの地方をおいて他にあるまいと考え、その一期工事として利根川が西より東に向かって流れ、ややその流路を南に変える地点に当たる川俣(所在地は前出)でその流路を絶ち、流路をそのまま東に向けて付け替えることにした。これを「川俣の締切」といい、利根川治水史上大きな意義を持つものといわれている。また、この締切工事には家康の四男で武蔵国忍(おし)(現、埼玉県行田市)の城主松平忠吉も大いに協力したという話も伝わっている。
かくして忠次は川俣の締切を行うとともに、新たに河道を東に移すべく、現在の埼玉県北埼玉郡北川辺町と大利根町の間をうがちて栗橋にいたり、ここで南流している渡良瀬川を合わせ、その河道を改修して東にすすみ、現在の千葉県東葛飾郡関宿町において渡良瀬川を太日川(現、江戸川)に落し、利根川の本流を更に東にすすめ、現在の千葉、茨城県両県の間を貫き、「流れ江」と呼ばれていた北総の沼沢地帯を開削し、これを大河として現在の流路をつくったのである。