はじめ伊奈忠次が利根川河道の東遷計画を立てたのは、もとより江戸を洪水から守るのが目的であったが、それと同時に利根川の水を利用して常陸、下総の両国にまたがる広大な土地に新田を開発し、徳川氏領国の経済的基盤を固くしようとする意図があったからである。試みに、いま茨城県南部の地形を見るに、筑波郡、北相馬郡、稲敷郡の一円は、筑波山の裾野が西に広がる洪積層台地から、更に標高の低い沖積層低地で、おおむね現在の伊奈村板橋、小張を中心にして東南及び西北に連なる線を画し、それ以南、東西は伊奈村城中まで、西北は谷和原村福岡まで、いずれも小貝川の流域までは一望さえぎるものなき平坦地で、古来有名な谷原三万石の美田もまたこの平坦地のなかに含まれている。
現在、谷原三万石といわれている地方は、かつては小貝川の流域で、筑波台地の縁辺をなす低温地帯が広がり、葭(よし)や蘆(あし)が生い茂っていた荒蕪地(こうぶち)であったと思われる。しかるに伊奈忠次が家康の眼識により代官頭、関東郡代として地方(じかた)支配に任じられると、各地にある未開墾の荒蕪地をそれぞれの地方における在地土豪や有力な農民に奨めてこれを開発させ、その実施者には褒賞として扶持や屋敷地を与え、大いにこの事業の促進をはかった。いまその二、三の例を挙げて見よう。
今度、ひたち屋原(常陸谷原)新田情(精)を入れ過分に発し、御奉公申すに付ては、屋敷分として屋わら(谷原)壱町歩長く出し候間、作り致すべく候。いよいよ新田情入れ発し候様に才覚仕るべく候ものなり。仍って件のごとし。
申三月十五日
伊備前(花押)
向石下大学助
(水海道市増田家文書)
これは慶長十三年(一六〇八)三月、向石下(現、石下町)の大学助に対して、伊奈備前守忠次が与えた屋敷地宛行(あておこな)いの史料であるが、このほかにも各地において未開発地を開発した者に、同じような文書を与えている。また、このような文書は忠次の時代ばかりではなく、その子忠治の時代に至っても出されたのである。
今の度相馬谷原新田情に入り発し候いて、御奉公申すに就いては屋敷分として谷原三反歩永出し候間、発し候いて作り仕るべく候。いよいよ新田情入り発し候様才覚を致すべきものなり。仍って件のごとし。
寛永八年未九月十二日
伊半(花押)
山王
門右衛門
(藤代町山王 間根山家文書)
このように忠次、忠治父子は新田開発を奨励してこれを実施し、農村の振興を計るとともに、一方では利根川河道の付替え工事の担当者として、着々その業績を挙げていた。ところが工事もようやくすすみ、北総地方における河道の付替えもほぼ完成に近付きつつあったころ、先に忠次、忠治によって開発が行われた小貝川左岸の低湿地帯は、しばしば洪水に災いされ、そのたびに被害を被ることまことに少なくはなかった。
そのころ鬼怒川は現在の谷和原村寺畑付近より流路は急に左折し、現在、取手北ネオポリスと称する住宅地帯を過ぎ、同村杉下付近において小貝川に注いでいた。
小貝川は水源を下野国(栃木県)の山地に発し、南流して現在の茨城県協和町に至り、更に下っておおむね現在の下妻市付近において鬼怒川と平行して流れ、左岸の筑波、右岸の結城、北相馬二郡の境界をなし、途中現在の筑波郡谷和原村杉下において前述のように鬼怒川と合流し、更に南流して現在の取手市戸田井において利根川に注いでいた。ところが小貝川右岸地帯は先に述べたとおり、一望さえぎるものなき平坦地であるのに対し、その右岸、特に小貝、鬼怒両川の合流点たる杉下以南はおおむね台地が連なり、自然の水防をなしていた。それに比べて左岸地帯は、江戸時代の初期には未だ堤防の構築も見られなかったので、一朝大雨沛然(はいぜん)たる場合、小貝川に比べて長い流域を持つ鬼怒川の水を、鬼怒川より体質の弱い小貝川にうけることは極めて困難であった。そのため小貝川左岸はしばしば河川の氾濫によって災害を受けることが多く、せっかく新田として開発した現在の谷和原、伊奈両村のこうむる被害はまたばく大なものであった。そこで忠治は小貝川左岸に広がる開発田を洪水から守るため、鬼怒川河道をも付け替える必要を感じ、父忠次の没後十数年にしてその工事に着手することになったのである。
鬼怒川開削概念図