鬼怒川は前面瀬波の立つ附近から左折して小貝川に注いでいた
さて、ここで以上諸説の出典を調べて見よう。
元和年間説は富村登著『水海道郷土史談』によるもので、これは『福岡堰沿革誌』及び『猿島郡郷土大観』を引用し、更に内守谷村の古老坂巻作右衛門の談話を併せてこの説を立てたものと思われる。また、寛文年間説は『利根川図志』に挿入されている絵図に鬼怒川を表示し、それに「寛文中新疏」と註を加えてあるので、それを出典としたものらしく、更に正徳年間説はただ『大日本地名辞典』にその記載があるのみで、もとよりそれを史料的に証明したものではない。ところが、守谷町内にある旧家所蔵の文書を集めているうちに、板戸井(西)の寺田芳蔵氏所蔵文書のうちから『御地頭様御持年間』及び大山の笠見統治氏所蔵の『由緒書』という二点の史料を発見した。それによると『御地頭様御持年間』には「新鬼怒川掘割寛、永元甲子年也」とあり、由緒書には「寛永二丑、高かけ(現、谷和原村小絹にある屎尿処理場附近)より細代村へ新堤をつき留め、新川を掘り、きぬ川を新川へまわし、丑、寅、卯三年ほり、川成就いたし候由」とある。つまり着工の時期を寛永元年(一六二四)といい、また、同二年であると二つの史料は伝えている。この史料は鬼怒川開削に関するものとしてはもっとも新しく発見されたもので、従来着工時期について定説がなかったのに対し、何か示唆するものがあるように思われる。しかし、由緒書は享保十四年(一七二九)に、また、『御地頭様御持年間』は寛保三年(一七四三)に書かれたもので、いずれも寛永初年から百年余を経過しているので、その信ぴょう性については必ずしも良質な史料とはいえない。
殊に『由緒書』には鬼怒川付け替え工事は、着工した丑、寅、卯のわずか三年間で「川成就いたし候由」と伝えているが、このとき開削した新河道は、現在の谷和原村細代、寺畑から守谷町大木に至る約六、五キロメートルの間で、この地帯には水海道市内守谷町長之入、鹿小路及び守谷町大山、板戸井、大木にわたるおおむね一七ないし二一メートルの標高を持つ台地が連なり、その間に所々低湿地もあったので、開削工事はその地形を利用してすすめられたと思うが、しかし、当時なお土木機器も無く、ひたすら人力のみに頼って行われた作業では、とうてい三年の短日月で完成したとは思われない。従って『由緒書』にいわれている「丑、寅、卯三年ほり、川成就いたし候由」という説は疑わしいものである。
さて、それはしばらくおき、伊奈忠治の事業たる鬼怒川の開削工事が完成したのは、これまたその起工の時期とともに明らかではないが、おそらく寛永十年(一六三三)以後のことであろう。この工事の完成によっていままでしばしば氾濫していた小貝川もようやく治まり、ここにはじめて谷原三万石の沃野は開発の実を結ぶにいたったのである。