開削工事に関する諸挿話

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 鬼怒川開削工事に関しては、具体的にその工事経過を伝える史料はまったく見られず、ただ笠見家所蔵の『由緒書』にわずかに「高かけより細代(新堤をつき留め、新川を掘り、きぬ川を新川へまわし云々」とあるのが、工事経過の一端を知る唯一のものである。また、工事経過については富村登氏著『水海道郷土史談』(前編)に次のような記事がある。
    鬼怒の大木、板戸井開削に際し、忠政(註、忠治が家督を襲ぐ前は忠政が開削事業を担当していた)の最も苦心した点は、如何にして鬼怒の旧川(当時寺畑から野中に向って流れた)を廃道たらしむべきかの方策であった。其の方法として寺畑の迂曲線高掛の地に、堤防を築いて、鬼怒本流の水を塞ぐより外に道がないが、此処は水勢猛烈を極め、尋常の手段によってのみでは、成功すべくもなかった。忠政は寺畑村名主弥左衛門(吉田)に命ずるに、此難工事を以てした。弥左衛門は豪邁の士であったから、身命を堵して其工事に当り、遂に之を完了して、今に至るまで弥左衛門土手の名称に其名を謡はれてゐるが、其詳細は『福岡堰沿革誌中』に明らかであるから、次に其全文の一部を抄出して置かう。
     谷原新田創立
  一、常陸国筑波郡谷原新田開発ノ創立ハ、人皇九代後水尾天皇(註、百九代は明正天皇で、後水尾天皇はその父皇であるから百八代にあたる)御宇、武将第三十三代(註、鎌倉時代の将軍九代、執権北条氏)六代、足利時代の将軍一五代、(江戸時代の将軍秀忠まで二代を含む)徳川秀忠公ノ治世迄ハ、鬼怒川ノ水ト小貝川ノ水、谷原新田ヘ押込ミ居リ候所、開発ノ為メニ元和中、模様ヲ変ヘテ、鬼怒川ヲ、下総国相馬郡新宿村ヨリ板戸井村ヘ掘割ツテ、利根川ヘ落流スル様ニ成シテ鬼怒川ノ水、谷原新田ヘ流レ入ル所ヲ、細代、新宿両村ノ地先字高掛ト云フ所ニテ、長百間、敷二十間、馬踏八間ノ堤防ヲ築立、一式御入用御普請ニ有之(即チ工事費用ハ全部幕府持)、其際同郡寺畠村弥左衛門方ヘ堤防築切リ主任被申付、御奉公大切ニ相勤メ尽力致スト雖、該地ハ難場ニテ、何分築留ルコト不能、故ニ工夫ヲ成シテ、高瀬船ニ土ヲ積テ、二艘程埋メテ漸ク築切ルコトヲ得タリ。
 と、これによれば鬼怒川の水をふさぐ方法として二艘(そう)の高瀬船に土砂を満載し、それを河中に沈めて水の流れをさえぎり、その水をあらかじめ築いておいた新川に流れ込むようにしたと伝えている。