鬼怒川開削後の地層(約10万年前の成田層)
鬼怒川開削後の地層(鹹水性貝類の露出)
現在の下総台地をこの成田層の深さまで掘るには、その間に関東ローム層をはじめいくつもの地層が重なっている。その地層を二〇メートル以上にわたって掘り下げたのであるから、これに要した労力はまたばく大なものであったと思う。その当時、労力はどうして得たのであろう。これまた史料が欠けているので明らかではない。だが、江戸時代には夫役制度というのがあった。この制度は支配者が一般農民に租税の代償として課したもので、古代律令制による租庸調のうち庸の理念をそのまま引き継ぎ、農民の余剰労力を徴発して自己の用途に使役するものである。そしてその多くは助郷、道路、河川などの工事に当たらせていた。鬼怒川開削工事にもおそらくその夫役制度によって周辺の農民が大勢、人夫として徴集され、苛酷な労働を強いられたものと考えられる。それについてはまた次のような話が前記の『水海道郷土史談』に載っている。
故老の話にはこんな例もある。規則は余りに厳重に過ぎ、工夫(こうふ)等には煙草一服の余裕すら与へられなかった。其苦労に堪えずして彼等は便通と称して厠中に遁(のが)れ、少時の休息によって、疲労から恢復しやとうした。此風は忽ちにして工夫等の間に伝播し、便所通ひの者が、日に日に増加する有様だったので、官吏は土工の用便後、毎回便所を検査し、若し偽って便所に徒らに時を過すものあれば、之に対して厳重な刑罰を加ふることとした。以て規律のいかに厳重であったかを知り得るであろう。
以上の話の真偽は定かではないが、これとまったく同じような話が戦国時代にもあったと伝えられている。それは小田原の北条氏が荒川に熊谷堤を築いたとき、多くの領民が人夫として狩り出され、寸暇もなく労働をさせられたので、人夫たちはこれに苦しみ、排便を理由にして人なき場所で休息をとることにした。ところがその例がたちまち人夫の間に広まったので、役人は遂に果たして排便したか否やを確かめるため、排便の跡を見てまわった。そこで人夫はその監視から逃れるため、更に一計を案じ、休息するにはなるべく新しく排便した糞塊を求め、その場所にうずくまって役人の目をかすめたという。この話はいまでも荒川沿岸の各地に伝承として残っている。
とにかく、鬼怒川開削工事にはわれらの祖先が多くの労苦を忍び、且つ長年月を費やして完成したことは事実である。従ってわれらはまずその偉業を高く評価し、それとともにこれを銘記し、永く歴史として伝えなければならない。