利根川河道の東遷工事も承応三年(一六五四)に至ってようやく完成し、それに先立って鬼怒川開削工事も終ったので、東関東における地理的様相はまったく一変し、その水系を利用する舟運はにわかに発達した。すなわち、利根川河道の東遷工事以前は、利根川の流路は関東地方のほぼ中央部を北より南に貫き、そのまま南下して江戸湾(現、東京湾)に注いでいたのを、東遷工事の結果、河道を東に移したため、関東地方の東部において流路を西より東に転換したことによって、渡良瀬、太日、鬼怒、小貝の諸川及び霞ケ浦、北浦などの湖沼がことごとくその水系につながるようになったからである。
以上のように利根川水系の拡大によって、東関東の河川交通が急速に発達したことは前にも触れたが、当時、この地方における河川交通の状況を見るに、奥羽地方から東廻りの航路による船舶のうち、直接江戸湾に入って品川沖に停泊するものもあったが、浦賀水道の難所を避けるため、常陸国(茨城県)那珂湊や、下総国(千葉県)銚子港にいったん陸揚げするものもあった。那珂湊に陸揚げされた貨物は小舟に積まれ、涸沼(ひぬま)川を通って海老沢河岸(東茨城郡)に陸揚げし、そこから陸路を馬車などによって北浦の北端にある鉾田(鹿島郡)に運ばれ、更に高瀬船に積み換えられ、鹿島、潮来、牛堀(以上、茨城県)から横利根川を通って利根川の本流に出で、神崎(こうざき)(千葉県)、金江津(茨城県)、木下(きおろし)(千葉県)、藤蔵、取手、野木崎(以上、茨城県)の各河岸を経て、関宿(千葉県)までさかのぼった。また、茨城県の小川、高浜、土浦、麻生(あそう)あたりの船は霞ケ浦を乗り切って利根川本流に出た。さらに銚子港に陸揚げされた貨物ははじめから利根川本流を利用し、小見川、佐原(以上、千葉県)などを経て関宿に達したのである。
なお、鬼怒川は、その流域にあたる下野、常陸、下総の各地方はもちろん、遠く会津方面の物資の輸送にもこの水系を利用した。例えば、会津若松二四万石松平藩の年貢米を江戸の蔵屋敷に納める場合、又はその地方の物産を江戸へ送る場合、それらはすべてこれを南会津郡の田島宿へ集めた。田島宿はもちろん山岳地帯で水系の利用などは思いもよらぬところであるが、その集めた物資は陸上輪送、といっても多くは馬背によって下野(栃木県)との国境にある山王峠の嶮を越え、いまは観光地になっている五十里ダム附近や川治、鬼怒川の温泉郷を経て高徳(塩谷郡)まで運んだ。高徳は鬼怒川の上流で小舟による水運の便が得られるところであるから、そこからさらに軽舟によって阿久津河岸(河内郡)まで下り、そこで大型の高瀬舟に積み換え、宝積寺、板戸、道場宿、石井(以上、栃木県)など幾つかの河岸を通過して下総の宗道、石下、三坂、水海道、細代、新宿、板戸井、野木崎(以上、茨城県)の各河岸を経て利根川本流に出で、それから利根川をさかのぼって関宿に達した。この関宿は利根川と江戸川の分流点である。関宿まで来た各方面からの船舶はここから江戸川に入り、中野台(野田市)、流山(流山市)、松戸(松戸市)、市川、行徳(以上、市川市)の各河岸をよぎり、現在東京都江戸川区の南部を東西に流れている新川(一名、行徳川)を抜けて中川を横切り、中川番所の検問を経て江東区の小名木川に入り、大島、砂町、深川(以上、江東区)の間を縫って、はじめて花の大江戸隅田川に達したのである。
以上、述べたのは当時水路のみによる輸送路であったが、利根川には鬼怒川と合流するところに「ガマンの瀬」という難所があった(「ガマンの瀬」の由来については、前項村落の歴史=野木崎村=の項で述べた)。この難所は野木崎村の対岸、三ツ堀村(現、野田市)との間にあって、船頭はこの難所を通過するのにすこぶる困難を極めた。そこでその難所を乗り切るため船に長い綱を付け、陸上から船を曵く引き舟人夫がいたという。さらに関宿まで二十数キロメートルの流れをさかのぼることを避け、荷物をいったん三ツ堀村と隣接している木野崎村の河岸へ陸揚げし、それから江戸川沿岸にある中野台河岸まで陸送のうえ、再び船積みして輪送する方法も採られた。この輸送路をとればあたかも三角形の一辺を行く距離に当たり、また、利根川を遡行する困難も避けられたので、明治二十三年(一八九〇)利根運河が開通するまでは相当利用度が高かったようである。