河岸問屋組合の成立と船舶の種類

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 以上のように利根川水系の河川交通がこのように発達すると、沿岸の各所に船着場ができた。それを河岸という。守谷地区においても板戸井、大木、野木崎などにそれができた。板戸井から上流には鹿小路、新宿、細代、江島、水海道(以上、現水海道市)などにも河岸が設けられた。ことに水海道はこの地方では代表的な商業集落であり、したがって物質の集散地であったから、回漕業者も多くいたので、その専用の河岸もあった。今に残る鍵屋河岸、釜屋河岸、新井河岸などはそれである。ここでいう回漕業者というのは普通これを問屋といい、荷主から貨物の輸送を託されてこれを運送する業者のことである。新宿の豊島氏、大木の須賀氏、野木崎の椎名氏などは問屋を業としていたので、いまでも「問屋の家」という呼称が残っている。
 鬼怒川にはその沿岸の宗道(現、千代川村)から野木崎までの間一八か所に河岸があった。その各河岸の問屋は、営業権を守るため組合を結成し、荷物の合理的輸送と組合員以外の者が輸送業務に携わることを排除する議定書をつくった。この議定書の原本は新宿(現、谷和原村)の豊島伝吾氏の家に所蔵されていたが、伝吾氏逝去後保管が不充分のため、ついに散逸して今は見られない。しかし、この豊島家文書のほかに、岩井市神田山(かどやま)の海老原藤吉氏所蔵の『川通問屋組合帳』というのがある。これも作成の時期は異なるが、豊島家文書とほぼ同じような内容を持ったものであるから、その主なものを左に掲げることにしよう。
                               川通問屋組合帳(全文一三条より抜萃)
  一、川通問屋御運上(註、税金)仰せつけられ候につき、運賃、蔵敷、庭銭(註、蔵敷料、庭先使用料)[ ]銭、葉銭(註、意味不明)等、仕来(しきたり)の外は相増し申まじき旨仰せ渡され、畏り奉、[ ]候。之(これ)によって問屋仲間寄合(よりあい)、前々よりの仕来、此の度を以って相改め、箇条書相定め置き申し候。
  一、川通問屋[ ]銭(カ)の儀は船賃金壱両につき、百文づづ前々より請取り来たり候間、船頭方(カ)より相済ませ申すべく候。例え其の所の船なりとも、もちろん親類の船なりとも、相定めの通り差出[ ]申すべく候。蔵敷、庭銭川通[ ]の儀は御大名様、御旗本様御納米につき、[ ][ ]の六ケ敷(むつかしき)儀出来仕り候節は、[ ][ ]仕り相済ませべく候。出入(註、裁判沙汰)に相成り候儀もこれあり候節は、其の訳(わけ)(註、理由)問屋仲間へ相知らせ申すべく候。連中の了簡を請け申すべく候。品々により(註、事情によっては)其の入用連中より助合(すけあい)申すべく候。
  一、問屋仲間仕来荷物は何にてもせり取り(註、糶(せり)、競争)申す間じく候。万一心得違いをもって、せり取り候はば吟味相糺(ただし)仕来相破り候は=以下数字不明=仲間相外(はず)し申すべく候。
  一、問屋[ ]船の儀は船印相定め、此の組合[ ]一様=以下、数字不明=仕り、何れの川岸=以下数字不明=にて難船破船等これあり候はば、問屋船の儀は上下の船(註、上り下りの船)相集り助船相[ ]申すべく候。
                                             (以下省略)
    安永四年末九月
                          下総国新宿川岸
                               勘兵衛
                          同国板戸井村
                               五右衛門
 以下各河岸における問屋の連名が載っているが、それは省略することにする。
 さて、利根川水系の舟運が年々発達し、鬼怒川にもまた各所に河岸が設けられると、そこを往来する船はますます多くなった。そしてその船の種類も多種多様になったが、主として用いられたのは高瀬船である。しかし、その高瀬船もまた積荷や積荷の依頼者によって次のように区別されていた。すなわち、幕府領の年貢米を運ぶ船は御用船といい、その印に幟や高張提灯を掲げ、航行には最も優先的に取り扱われた。また、諸大名の持船や、臨時に雇われて大名領地の年貢米を積む船は御雇船、もしくは定御雇船といったが、この種類の船は建造してから三年以上経ったものや、船具不備のものを使用することは許されなかった。さらに一般民用に供する船はこれを売船といった。そしてそれらの船の数は幕末から明治初年にかけたころの記録によると三坂、中妻、水海道、寺畑、新宿の各河岸で五六艘を数えられた。なおその他の河岸にも多数の船があったから、この川筋における船舶の往来は相当激しいものがあったと思う。なおまた、この川筋には船ばかりではなく、「野州筏(いかだ)」といって、下野国(現、栃木県)の奥地で伐採された木材を筏に組み、筏の上に蒲鉾(かまぼこ)小屋をつくり、それに筏師が寝泊りしながら川を下るものもあった。こうした筏は大正初期まで東京深川あたりの川筋でよく見かけたものである。筏を目的地まで輸送したのちの筏師たちは帰り船に頼み、それに便乗して帰途についたという。
 江戸時代、江戸では利根川水系の各河川を「奥川筋」といい、その奥川筋から江戸へ入ってくる船は、御用船、御雇船、売船を問わず、必ず中川番所(註、陸路の関所にあたり、現在、東京都江東区大島九丁目にその跡がある)の検問を経なければならず、それには通行手形が必要であった。

中川番所通行手形

      差上げ申す一札の事
   土屋采女(うねめの)正物成米 板戸井村兵蔵舟
  一、新米四百五拾俵、但四斗入
 右は深川元町蔵屋敷まで積送り申し候間、何卒御関所相違なく御通り遊ばされ下さるべく候。
                         以上
        土屋采女正領分
          下総国相馬郡細代川岸
             問屋  甚助 印
  文久三亥年十月廿五日
   中川御関所
    御役人中様
                        (板戸井 寺田芳蔵家文書)
 いま右の史料について解説を加えれば、土屋采女正というのは土浦藩九万五千石の大名で、その領地が現在の谷和原村細代、川崎、鬼長(おにおさ)にあったので、その村々から徴収した物成米(註、年貢米)を深川元町(現、江東区常盤一丁目)にある土浦藩の蔵屋敷まで、板戸井村の船頭兵蔵の舟によって積み送ることにしたから、番所を差支えなく通行させてくれるようにとの意である。