鬼怒川流域には先に述べたように宗道河岸より下流、野木崎河岸まで一六の河岸があった。しかし、それ以外にも利根水系全体では、元禄二年(一六八九)幕府の調査によれば六八箇所に河岸があったといい、それが時代を経るに従って更に増加したというから、江戸末期にはどのくらいあったか想像もつかないほどその数は多くなったと思う。その河岸には各地の情報がもたらされ、また、各地文化の交流が行われた。その文化交流の場所となったところは各河岸にあった数軒ないし、十数軒あったといわれる水茶屋である。
水茶屋というのは煎茶を売る店に対し、茶を淹(い)れて売る店のことである。もとは街道筋で旅人が腰掛けのある店などで休息し、渇(かつ)を癒(い)やすために湯茶を求めたことからそれを水茶屋と呼ぶようになったが、江戸中期以後になるとその水茶屋で簡単な「煮しめ」などを出すようになり、さらに料理を作って提供するまでに至った。こうして水茶屋は料理店に変わっても、煎茶を売る店に対して湯茶を売る水茶屋の名は残り、一般に料理店のことを水茶屋というようになった。
守谷附近で一番栄えたのは野木崎河岸である。この河岸は地理的に利根川をのぼってくる船と、鬼怒川を下ってくる船のちょうど合流点に当たるところで、鬼怒川を下ってこれから江戸へ向う船は利根川をさかのぼらなければならず、また、利根川をさかのぼった船のうち、さらに鬼怒川をさかのぼらなければならない船などは、この河岸で一息入れるため停泊するのが当時の習わしであった。そこでそれら船頭たちのために、浩然(こうぜん)の気を養う場所として設けられたのが水茶屋である。野木崎河岸には明治時代の記録によれば、菅野屋、中野屋、宮野屋、虎屋など十数軒が、現在の大野小学校前、通称立場というところから河岸までの間に軒を並べていた。しかもその店にはいずれも美しい女がいて船頭たちの相手となり、一夕の歓をむさぼるのに夜の短きをかこったという。
〽虎屋お夏は錨(いかり)か綱か、 上り下りの船とめる。
〽虎屋、虎屋といそいで漕(こ)げば、 野木崎虎屋は近くなる。
この俚謡(りよう)は、明治のころ水茶屋虎屋にお夏という美人がいて、その美人を目当てに船頭たちが野木崎河岸を目指す情景を唄ったものである。
元来、船頭は在方の人びとに比べて小粋(こいき)な稼業(かぎょう)であった。それは江戸の小舟乗りの影響を受けたからである。江戸の小舟乗りとは、吉原や深川の花柳界へ猪牙舟(ちょきぶね)という小舟をこいで遊客を運ぶ船頭のことである。こうして常に花柳の巷(ちまた)へ出入りをしていた関係で、自然身なりも小粋につくるようになり、江戸の小舟乗りといえば花柳界の女たちにもてはやされたという。利根水系の船頭たちもまた常に江戸、東京通いをしていたので、自然にその風俗をまねて身繕いも在方の人と異なっていた。そこでその粋な船頭たちの伊達姿にあこがれ、血道(ちみち)をあげた浮気女もいたということである。また、そのころ野木崎河岸の付近にはその対岸にある船戸河岸(現、柏市)にも戸塚屋、丸屋、戸頭河岸には森戸屋、三桝屋、恵比寿屋、柏屋、板戸井河岸には花屋、桝屋などがあったと明治時代の記録に残っている。このように利根水系の流域に咲いた仇花(あだばな)ともいうべき水茶屋は、そこに立ち寄る船頭たちによってそれなりの文化をはぐくみ、流域より遠く離れた村々よりははるかに高い文化的香りを漂わせていた。さらに水海道は昔から鬼怒川流域における最大の河岸として知られ、地方経済の中心地であった。それがため水海道は北総随一の経済的文化的集落として発展し、現在の繁栄をもたらす基盤を作るに至ったのである。