上総国(現、千葉県の一部)九十九里浜は古来鰯漁業の盛んな所として知られている。大量に水揚げされた鰯は加工して保存食料としたが、また、その成分が農作物の肥料に適することを知り、江戸時代になるとさらに工夫を凝らして干鰯(ほしか)を作り、肥料として使用することに成功した。九十九里浜ではその干鰯が大量に生産されると、地方の農村にその販路を求めることになり、まず販路は輸送に便利な舟運の便のある地方を選んだ。利根水系の各河川流域の農村に、干鰯が出回わるようになったのはこのような理由があったからである。
九十九里浜で生産された干鰯が関東各地の農村に普及されてその需要が増えると、肥料取扱いの問屋を設けようとする要望が業者の間に高まった。そこで野木崎村の名主助三郎と組頭の弥左衛門の両人が、その問屋を開設しようとして元禄七年(一六九四)、次のような願書を幕府へ提出した。
恐れながら書付を以って願い奉り候御事
一、常陸国銚子(註、銚子は下総国に属す)より下妻、下舘、結城筋へ払い申し候干鰯荷物、船にて鬼怒川通り送り申し候。当村は船積替へ又は岡付き仕り候にも、売荷人、買荷人勝手まかり御座候につき、名主助三郎、組頭弥左衛門両人にて問屋仕られ候様にと、商売人ども兼々願い申し候間、御慈悲に右両人仕り候様仰せ付けられ下され候はば、有がたく存じ奉るべく候。
(野木崎、椎名半之助家文書)
「附記」この願は三ケ条にわたっているが、以下二ケ条は省略する。
利根水系の舟運によって九十九里浜産の干鰯が内陸深くまで移入され、しかも取扱い問屋のような流通機構が整備されると、その需要はますます盛んになり、したがってそれが農業生産の増大を促したことは否定できない。このように流域文化の浸透、そしてその影響は、農業開発という面においてもまたうかがい知ることができる。