名主

280 ~ 281 / 434ページ
 名主の名称は中世期の名主(みょうしゅ)に始まるといわれている。その名主とは中世期における名田(みょうでん)所有者のことで、名田を所有する権利を名主職(みょうしゅしき)といった。ところがその名主が鎌倉時代から南北朝時代にかけ、一族間における土地分与などの理由によって名田の分散が行われ、したがってその所有者たる名主も分解して零細化し、それに伴なって名主に隷属してその農業経営を支えていた小農民はかえって成長して独立農民になったため、名主の地位は著しく弱体化して遂に領主的権威を失うに至った。しかし、名主はなお郷村にあっては中枢的存在で近世村落が成立した後においても、先に述べたごとく村の勢力者としてその系譜は依然存続し、名主を名主(なぬし)と呼び方を変えただけで、郷村支配の実力者として君臨したのである。この名主の名称は地方によって庄屋、肝煎(きもいり)などと呼び名が付いているが、その本質は全く同じで、名主とは主に関東地方及びその周辺地方における呼称で、まれにはこの地方でも庄屋と呼ぶところもあったようである。
 名主の成因及び名称はおおむね以上のようなものであるが、名主は幕藩体制下における行政単位たる村という支配区画内の一般村政をつかさどる重要な任務を持っていた。従って名主の身分は農民であるが、多分に行政官的性格を持ち、多くの場合領主側の立場に立っていたが、一面あくまで農民たるの自覚を持ち、場合によって領民側に立って領主に対抗することもあった。例えば巷説(こうせつ)による佐倉義民伝の木内宗五郎は、佐倉領公津(きみつ)村の名主であったが、領主の苛歛誅求(かれんちゅうきゅう)に対抗し、領民の代表者として強訴の手段にでて処刑されたと伝えられるがごときはそれである。
 名主は先に述べたように行政官的性質を持ったものであるから、その任免には領主の認証を得なければならなかった。また、就任後は村政の全般にわたって統轄、処理することになったが、そのうち特に重要な事項としては、
 (イ) 年貢の割付
 (ロ) 年貢の収納
 (ハ) 領主より出た触書の伝達
 (ニ) 村内の治安維持
などあり、それらはいずれも名主の責任において処理しなければならなかった。