江戸時代の農村社会には、以上地方(じかた)三役と称する村役人のほかに小前と称する一般農民がいた。江戸時代、農村に回付される『お触書』を見ると、その末文に「小前末々まで洩れざる様申し聞かせ云々」という文言がしたためられている。小前とは小前百姓の略で、つまり名主、組頭、百姓代以外の農民のことである。しからばその小前という呼称の由来はどうして生まれたものか、それについて少し説明を加える必要がある。
中世のころ、各地に在地武士と呼ばれている半士半農の階層が存在していた。この階層を当時国人(こくにん)または国衆と呼んでいたが、その発生について次のような成因があった。
既に一〇世紀前後より中央の貴族や有力社寺の私有地として、荘園という土地制度が生まれた。この荘園には荘園領主である貴族や社寺によって任命された荘司、荘官などという荘園の管理者がいた。それが南北朝時代を経て応仁の乱がおこるや、それ以来国内とみに乱れて戦乱が相つぎ、国内を統一して支配する者がいなくなった。そうなるとまた荘園領主たる貴族や社寺の勢力も必然的に衰えて、完全に荘園を掌握することができなくなった。そこで荘園の管理者たる荘司、荘官と呼ばれていた者たちは、荘園領主の衰えた間隙に乗じ、いままで管理していた荘園を押領して力を養い、領家または木所と称する荘園領主から独立分離し、在地土豪としての地位を築くに至った。また、一方では前述したように名主(みょうしゅ)として多くの名田を所有していた有力農民が、自力で未墾の土地を開発してその土地を自分の所有に帰し、ますます農業経営の拡大を計る者も出てきた。しかしこの両者とも、戦乱によって社会が混乱していた時期であるから、自己防衛のため武備を整えて外敵に備える必要があった。その態勢が成長して兵農一体の形を持った在地武士となったのである。ところがその兵農一体の態勢は、豊臣秀吉の太閤検地や兵農分離政策によって崩れつつあった上に、さらに徳川氏によって幕藩体制が確立したので、地方における在地武士は家中士として諸大名に仕官するか、または農民として在地に留まるか、二者選択を余儀なくされ、在地に留まった者は有力農民としてその存在が許されるに至った。
以上述べたように荘園の管理者または名主から発生した在地武士も、兵農分離や幕藩体制の確立という社会的変動によってその身分が分解されたので、かつてそれらに隷属していた小農民もまたその変動期にそれぞれ独立するようになった。その時かつての在地武士はその所領をそのまま保有して大地主となり、それを基盤にして農業経営を行い、独立した小農民を小作人としてそれに協力させることになった。こうした事情によってかつての在地武士をお館また大前と称し、それに対して小農民を小前と呼ぶようになったのが、いわゆる小前の語源となったのである。
ちなみに大前の語義は何によるか明らかではないが、小学館刊行の『国語大辞典』によれば大前の語義については「大百姓、豪農」とある。しかし、その語句は文書(もんじょ)の上ではほとんど見られない。