農村における身分の分類

285 ~ 290 / 434ページ
 江戸時代、農民を小前と称したが、別にまた平百姓ともいった。当時、封建的自分階層が厳しかった社会では、農村においてもその例にもれず、厳密な社会階層を生んだ。まず農村における階層を大別すると、高持百姓と無高百姓の二つになる。高持百姓とは土地を所有し、それによって生活を維持する者、無高百姓とはその反対に土地を所有しない者のことである。高持百姓はまた本百姓ともいい、自作農以上の者がそれに当たり、無高百姓はまた水呑百姓といって小作か日傭などでその生活を支えている者をいう。
 ここに『下総国岡田郡大生郷村家数人別書抜帳』と『大生郷村軒別暮方見渡取調帳』という二つの資料がある。この資料は天保十四年(一八四三)、幕府がその所領である下総国岡田郡大生郷村(現、水海道市大生町)の荒廃が甚だしく、それを振興させるために当時実践的農政学者として知られた二宮金次郎(尊徳)を御普請役格に取り立て、同村に派遣してその対策を行わせたとき、金次郎は同村の現況を知る必要上、村役人に命じて作成したものである。
 この資料によれば当時大生郷村は村高七一九石、戸数九八戸、人口五一五人となっている。そこでその村高七一九石を戸数九八戸で除すると、一戸平均七石三斗二升六合五勺弱となる。これをいま資料に基づいて各戸実際の持高を分類すると、
   一〇石以上   一八戸
    五石以上   四二戸
    一石以上   三五戸
    一石以下    三戸
 ということになる。江戸時代の耕作生産量は水田一反(約一、〇〇〇m2)あたり、田地の等級を平均して玄米で四俵(約二四〇kg)といわれていた。かりに四俵として計算すれば一〇石を収穫するのには水田五反歩を必要とする。それがすなわち五反百姓といわれる平均的農家であった。しかるに前記の表で見ると一〇石以上の収穫ある農家は九八戸のうち一八戸に過ぎず、その余の八〇戸はいずれも平均以下の零細農家である。したがって大生郷村農民の生活はかなりきびしいものがあったと思う。さらにまた資料はその生活状態を示したものとして次のように分類している。
  無難百姓    一四軒
  中難百姓    二二軒
  極難百姓    六〇軒
   (註、難とは生活難の意味である。従って無難は生活に差支えない者、中難はやや困難な者、極難は極めて困難な者となる。)
 ついで極難百姓六〇軒の内訳として、
  大破住兼    六軒
  借家     一一軒
  雨漏     一四軒
  無家      九軒
  極難      六軒
 に分類されている。
   (註、大破住兼とは家が大破して居住しかねるという意味である。無家とは自分の家を持たず、大家の物置小屋などに居住している者をいう。)
 なお、資料は九八戸のうち雪隠(せっちん)(便所)の無い家二〇軒を挙げている。雪隠が無いからといっても、その家の人びとは排泄物をどのように処理したのか、まさか山野に垂れ流しをしたのでもないであろうから、適当な方法でこれを処理したと思われる。もともと雪隠は母屋(おもや)に設けるものであるが、昔の農家には雪隠を母屋から離れた納屋(なや)の片隅に簡単な板囲いを作り、大瓶を掘り埋め、その上に踏板二枚を並べて雪隠とした家が多くあった。二〇軒の家に雪隠が無いというのも、おそらくは母屋にその設備が無かったことを挙げたのであろう。
 以上は大生郷村という特定の村落について、今から百四十余年前、天保十四年に作成した資料に基づいて分析調査した結果であるが、当時の農村はおおむねこれと大同小異であった。なお、小前といわれていた一般農民のうちでも、その経済的格差によって高持百姓、無高百姓という階層に分けられていたことはすでに述べたが、更に村厄介などという貧農層があった。そしてその貧農層はもとより村方三役を含めた村全体の農民を指してこれを総百姓といった。
 また、ここに農村社会における村民の身分を調査した史料がある。この史料は明治二年(一八六九)一月、現在の茨城県南部及び千葉県北部にあった旧幕府領や旗本領を明治新政府が召し上げ、そこに新たに葛飾県を置いたとき、県庁から県下の各村に対し『村方上中下三等身分書上帳』という調書を提出させた。そこで各村ではその指示に従い、次のような調査結果を提出したのである。
      上農
   右は金穀有り余りこれあり、不足の者へ貸渡し生活の道を立つ、故に是を上農とし、村役人の次席、中農、下農の上席たらしむ。
      中農
   右は金穀有り余りもこれなく、不足もなく、貸さず借りず、独立にして生活の道を相立つ、故に是を中農とし、上農の次席、下農の上席たらしむ。
      下農
   右は金穀不足にて常に上農より是を借り、而して生活の道相立つ。故に是を下農とし、上中農の末席にて平生とも上農を敬せずんばあるべからざるものなり。
   右の通り私共村方上農、中農、下農三等の分相定め書上げ奉り候ところ相違御座なく候。然る上は平常の交りにも各其れ等を越えて不敬の儀これなきよう、銘々堅く相守り申すべく候。これに依って差上げ奉る身分書くだんの如し。
                                  右 百姓代  坂倉次 印
                                    組頭   野口長一郎 印
                                    名主   高梨孝三郎 印
     葛飾県
       御役所
                               (大木新田<現在東京>高梨輝憲家文書)
 この史料は明治二年二月、大木新田の村役人から村内における農民の身分を調査の上、県庁へ提出したもので、その内容は大木新田の戸数一七戸のうち、上農八戸、中農五戸、下農四戸となっている。これは明治になってからの調査であるが、その実態と階層意識は江戸時代とまったく同じであった。
 このように江戸時代の農村社会では、身分による階級観念が大きく農民を支配し、それによって秩序が保たれていたものと信じられていたことはいうまでもない。