江戸時代の年貢は原則的には四公六民の比率をもって徴収したのであるが、それも江戸時代の中期以降になると各種の文化が発達し、それに従って消費経済が膨脹したため、武士階級も四公六民の比率では支配権力を維持するのに困難を来たす場合も生じたので、そのときは四公六民の原則を破り、それ以上の高率をもって年貢を徴収することもあった。
年貢は領主たる武士階級にとっては唯一の収入源であった。また、生産者たる農民にとっても最大の負担であった。年貢が支障なく上納することができ、また、支障なく収納することができれば両者とも幸いであるが、一朝その間に破綻を来たすと大きな社会問題に発展することがある。例えば百姓一揆のごときがそれである。
領主と領民の年貢関係はまず領主から発せられる徴税令書ともいうべき『御年貢可納割附之事』が交付されることに始まり、『御年貢皆済目録』という年貢領収書の発行をもって終りを告げるものであるが、いま、それを次にかかげる史料をもって明らかにしよう。
年貢可納割附事
子御年貢納むべき割附けの事
検見取 下総国相馬郡
巳高入
一、高六拾三石三斗六升壱合 皆畑 高野村新田
此反別拾六町七反弐畝廿壱歩
内高壱石八升 午川欠引
此反別三反六畝
残高六拾弐石弐斗八升壱合
此反別拾六町三反六畝廿壱歩
此訳
高拾四石六斗三升四合
下田畑成弐町四反三畝廿七歩 六
葭野成起返反永拾文
高拾壱石六斗八升五合 五
下畑弐町三反三畝廿壱歩 反永六拾五文
高拾四石八斗五升弐合 四
下々畑三町七反壱畝九歩 反永五拾文
高拾七石壱斗四升弐合 三
下ノ下畑五町七反壱畝拾弐歩
高壱石八升
内三反六畝 午川欠引
高拾六石六升弐合
残五町三反五畝拾銭歩 弐
反永三拾弐文六厘
取永六貫五百七拾文三歩
去亥同
一、反高畑百拾壱町六反壱畝廿七歩
内六町三畝拾五歩 午砂入引
外五反歩 当子起返取
此取永五拾文
残百五町五反八畝拾弐歩
此取永三拾五貫八百五拾八文五歩
内永五拾文 起返
去亥増
内
田畑成三町五反七畝拾三歩 反永弐拾四文
畑九町弐反三畝廿壱歩 反永六拾三文
亥免上
畑五反 反永三拾五文
当子起返
畑五反 反永拾文
畑四町五反九畝廿六歩 反永四拾弐文
萓畑壱町三反九畝拾弐歩 反永四拾壱文
同六町五反七畝拾五歩 反永四拾四文
芝畑四拾三町六反四畝廿七歩 反永三拾七文
同弐拾弐町四畝拾八歩 反永弐拾五文
埜畑八反八畝九歩 反永弐拾四文
同拾弐町六反弐畝廿四歩 反永拾三文三歩六厘
一、沼四反三畝拾六歩 見取
此取永三拾文五歩 去亥同
外
一、永五百弐拾三文三歩 秣場役永
此反別五町八反
永七百拾弐文七歩
亥ヨリ卯迄五ケ年
此反別七町九反 免除
外
永百六拾弐文 亥ヨリ卯迄五ケ年
此反別壱町弐反 当子ヨリ寅迄三ケ年
一、永五百文 川役
一、米三升八合 御伝馬宿入用
一、米壱斗弐升七合 六尺給米
一、永百五拾八文四歩 御蔵前入用
納合 米壱斗八升五合
永四拾三貫六百四拾壱文
右は当子御御取箇書面の通り相極め候条、村中大小の百姓入作のもの迄残らず立会い甲乙なくこれを割合、来る極月十日限り急度皆済せしむべきもの也。
嘉永五子年十月
佐々木道太郎
右村
名主
組頭
惣百姓
(高野村、岩田保家文書)
とある。これは嘉永五年(一八五二)十一月、下総国相馬郡高野村新田の領主田安家から、同家の役人佐々木道太郎の名をもって渡されたもので、その徴収の方法は検見法(けみほう)によったものである。