年貢査定の方法

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 江戸時代の年貢徴収の方法は検見法と定免(じょうめん)法との二つに大別されていた。検見法の検見とは毛見の義で、田の立毛(たちげ)(註、作物)を見分けしてその状況を査定する方法である。それには領主から派遣された検見役人が領内の各地にいたり、坪刈(つぼがり)と称して上、中、下などに格付けされた田地に対して一坪あたりの収穫を検査し、それを標準にして全収穫を算出し、その年の租額を定めるものである。この方法は一見公正のように見られるが、毎年租額が一定せず、しかも検見役人の私曲が行われる弊害もあるので、必ずしも適法であるともいえなかった。また、定免法とは既往数年間の収穫を平均して租率を定め、一定の期間これを変更することなく、また、豊凶のいかんにかかわらず定法どおり納めさせるものである。もっともその年、不慮の水害や旱魃(かんばつ)などで作物が実のらなかったときは、特にその実状を査定して租率を減免することもあった。これを破免という。この定免法によれば毎年租額が一定して領主にとっては便利であるが、反面農民にとっては不作の場合極めて不利でもあった。
 当時の年貢はもとより田畑に賦課するものに重きを置き、これを本途(ほんと)、または本途物成(ものなり)と称して正税とし、田畑以外の山林、原野等から生ずる収穫に対して賦課するものを小物成といった。これは本途の正税に対し雑税に相当するものである。また、これとは別に領主から免許を得て酒造、質屋渡世などを営む者に対しては冥加、運上などの雑税もあった。更に前掲の年貢割附状に出ている伝馬宿入用、六尺給米、御蔵前入用などはこれを三役又は高掛物(たかかかりもの)といって付加税に相当するものである。
  (註、伝馬宿入用は宿駅における費用に充てるもので村高一〇〇石につき米六升。六尺給米は幕府の駕籠かつぎや料理人に給するもので村高一〇〇石につき米二斗。御蔵前入用は貢納の際に要する雑費に充てるもので永二五〇文。この三役は幕府領の領民だけに課せられたものであったが、後には私領の領民からも徴収するようになった。)
 さて、高野村新田の収穫高に対し、嘉永五年分の年貢として米一斗六升五合、永(現金)四三貫四六一文を納めるように割り付けたので、同村では支障なくこれを納めた。これに対して領主は『子御年貢皆済目録』という領収書を発給した。それには割付状と同じく収納事項を詳細に書き、その末文に、
   右は去る子御年貢本途其の外とも書面の通り皆済せしむるに就き、小手形引上げ一紙目録相渡候条、重ねて小手形差出し候とも反古(ほご)たるべきもの也
    嘉永六丑年正月
       佐々木道太郎
                        右村
                          名主
                          組頭
                          惣百姓
                       (高野村、岩田保家文書)
 とある。なお、江戸時代は年貢賦課の対象は個人単位でなく、村全体を納租単位としていたから、もし、ある個人が何かの事情で年貢を納められなければ、五人組、親類などがそれに代って納めることになった。すなわち全村連帯、共同責任としてその責を負ったのである。

皆済目録