第二節 夫役

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 江戸時代、夫役制度のあったことはすでに先の鬼怒川開削の項で述べたが、この制度も農民にとっては年貢とともに大きな負担となったものである。そのうち特に農民の生活を圧迫したのは助郷であった。助郷とは幕府が慶長九年(一六〇四)東海、東山、北陸の諸街道を修復し、更に宿駅制度を設けるや、公家、大名の参観交替及び公用を帯びた幕臣などで、それを利用するものが多くなった。そこで各宿駅ではそれら旅行者の便宜を計るため、一定の人馬を宿場ごとに常備し、荷物の運搬その他の用に供することにした。すなわち江戸中期には東海道の宿場には人夫一〇〇人、馬一〇〇匹、中山道と美濃路では人夫五〇人、馬五〇匹が置かれ、その他の街道でも人夫二五人、馬二五匹がいずれも常備の人馬として置かれていた。ところが更に時代を経るに従い、公用旅行者の数も増え、それとともにこれに要する人馬の需要は常備定数の人馬では間に合わなくなったので、臨時に宿駅附近の農村から人馬を徴発してそれに充てることにした。これを助郷といい、その村を助郷村と称した。
 はじめ助郷村の範囲は宿駅を中心にして二、三里(八~一二キロ)であったが、人馬需要の増大に伴い漸次その範囲も拡大され、遂には一〇里(四〇キロ)以上にも及ぶようになった。また、助郷は常時徴発されるものを定助郷といい、定助郷のみでは需要に応じられない場合、さらに遠隔の地にある農村から徴発することもあったので、その助郷のことを加助郷または大助郷といった。こうして助郷制度が定着し、その利用が増えてこれが恒常化されると、その事務を処理するために助郷会所が設けられた。会所はまた問屋ともいい、そこには宿駅内から財産や人望のある者から選ばれた宿場役人が常駐し、その補佐役として年寄、帳付、人馬指などを置き宿場役がこれを指揮して事務を執っていた。守谷町附近では取手宿にその問屋があった。この問屋では大名や公用で旅行する役人から人馬調達の要請があれば、まず助郷村へ触書を廻わして人馬を徴発した。その触書は次のようなものである。
   今般、水戸徳川鶴千代磨様御遺骸に付き、当十八日当宿御通棺あらせられ候間、左の人馬触当て候間、十七日夕七ツ時に村々人馬召連れ、宰領(註、引率者)中印形持参にて当宿へ御出張り成り下され候。右申し上げ度、早々このごとくに御座候。以上。
    子正月十七日(元治元年 一八六四)                 取手宿
                                      問屋   重兵衛
    一、人足 弐人
    一、馬  五疋
                                     (赤法花 染谷良雄家文書)
 とある。この助郷によって村に課せられる人馬の基準は、村高一〇〇石につき人足四人、馬二疋となっているので、この触書の回った村々ではその基準にしたがって人馬を供出した。
 助郷はもとより夫役の一種であるから、それに対する金銭的な報酬はなく、しかも助郷徴発の時期は農耕の繁閑を問わず、随時行われることが多いので、農繁期に助郷として徴発されることは農作業に大きな支障を来し、また、大助郷として遠隔の地から徴発される場合、その人馬が指定の宿場へ到着するまでには半日、もしくは一日を費し、助郷役を終えて帰村するのにさらに半日、一日を費やすことになるので、一日の助郷役を勤めるために前後の日数を計算すれば、それだけ農作業が遅れ、農民の負担は加重することになる。そこで農民は助郷を課せられた場合、金銭をもってこれに代える雇替人夫という慣習が生じた。その手続きはもちろん問屋役人が行うものであるが、村ではその雇替人夫の賃金を支払わなければならなかった。それについては次のような史料がある。
       請取之覚
     一、金拾弐両壱分
   右は当月御法事につき其の御村方当宿助郷仰せつけられ候ところ、遠村の儀故正人馬勤め差出しかね候趣きをもって、御示談これあり、書面の金子只今皆金たしかに受取り申し候。然る上は宿方にて人馬請け切り、買揚(かいあ)げ人馬に致し、聊か差支えこれなく相勤め申すべく候。これによって念のため請取書差出し申し候。
                                                 以上。
    嘉永三戌年四月十八日
                                問屋  利右衛門 印
                                同   兵右衛門 印
                                年寄  政右衛門 印
                                     (水海道市 猪瀬家文書)
 この史料は嘉永三年(一八五〇)四月、一二代将軍家慶が、三代将軍家光の二〇〇回忌法要で日光へ社参するとき、助郷を課せられた下総国岡田郡三坂新田(現、水海道市三坂町)が、指定の参集場所なる野州鹿沼宿(現、栃木県鹿沼市)まで人馬を供することは困難である。しかし、その代償として金銭を出すから、それによって人馬を雇入れてもらいたいといって、その代金一二両余を支払った領収書である。
 このように江戸時代の助郷制度は、助郷を課せられた農村では人馬を供出する場合でも、また、雇替人足を依頼する場合でも、農民にとっては重い負担となるので、助郷に対する不平不満がその事務をつかさどる宿場役人との間に多く発生した。例えば守谷町赤法花、染谷良雄家文書のうちにある寛政二年(一七九〇)六月、『乍恐以返答奉申上候』という幕府評定所(現在の最高裁判所にあたる幕府最高の司法機関)に対する返答書、また守谷町野木崎、椎名半之助家文書のうちにある『弘化三午年二月、定助郷野木崎村外弐拾ケ村訴状之写』、さらに取手市、染野保家文書のうちにある『天保十五辰年七月十七日、大鹿村訴状之写』など、助郷問題に関する多くの史料が残されている。しかもこの助郷問題は当時の農村社会では、農民の生活に及ぼす影響が極めて大きいだけに、この問題が発生した場合、それに対応する処置を誤まると大事件にまで発展する可能性を含んでいた。文化十年(一八一三)十月、稲敷郡牛久宿を中心にして五五ケ村、六〇〇〇名の農民が蜂起した百姓一揆は、実に助郷問題に端を発した事件であった。この一揆に関しては『牛久肝胆夢物語、牛久騒動女化日記』などの稗史(はいし)文献が残されている。